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Treehouse Blog of cott

A SUNDAY TRIAL

WEDDING LOGO
I Created a logo with the name of a couple.
1 become 1++ to be loved by wife.
You Mean the World to him! Please wrap him up in your love.

SUMMER TIME BREAK

エアコンをかけまいと、できるだけ風を通して仕事をしているのですが、
近頃暑すぎて、
さらにサマータイムのため予定の仕事を午前中でほぼ終えちゃえる安心感も相まって、
作業DAYの昼休みはこんな状態です。
リキシャで休憩
昼休みだけですよ。笑
メリとハリで。
おっちゃんごめん。
Yasufuku

米をつくる一番の理由

並ぶ軽トラ
淡河農都ふれあい隊が行われました。
まちからお越しいただいた皆様に雑草を引き抜いてもらうなどの
ちょっとした農作業体験および生態系観察。
おもむろに雑草を引き抜き、
「ヒエ言うてなぁ、昔はこれも食うとったんやぞ」
と教えてくれるおっちゃんたち。

結局なんだかんだ「せなあかん」とか言いつつ、土を触るのが好きみたいで、
特に孫に
「野菜はおいしくないけど、じいちゃんのおにぎりはめっちゃおいしいね」とか言われると、
もっといい米つくろうと思うそうです。
やっぱりそれですよね。
根本には愛する者の笑顔を見たいがために今日も働く。
自然の美しさと厳しさの間に身を置いて。
ヒエ
サギ
田んぼの生き物観察
そんな神戸市内です。
そのあとは車で市街地まで30分。
神戸地域夢会議に参加して兵庫の長期ビジョンにの話を伺いました。

一般論に近いところもありますが、内容は非常に良くできているので、
問題は、
「そのビジョンをいつ誰がどのように行うか、どれだけアクションに移していけるか」
ということだと思います。

総合計画は急に知らされてもわからない。みんなで作ってこそ根付いていくもの。
完成後の分厚い冊子にでなく、そのプロセスにこそ重きをおきたいものです。

それにしても、農村都市関係なくこういったまちづくり活動の現場に行けば、ほとんどが私の倍以上、下手すれば3倍も生きてこられた定年後のおっちゃんばかり。おっちゃんおばちゃんは好きだからいいのだけれど、もう少し同世代とも一緒にやっていきたいものです。「地域の現状分析=問題を話し合った結果の愚痴大会」みたいにせず、ネガティブな側面もポジティブに変えるアイデアで、楽しくやりましょ。
神戸大橋
みなとこうべ海上花火大会
みなとこうべ海上花火大会
それにしても昨日の甲子園。久々に見たのだけれど、延長10回サヨナラ。本気でぶつけあう汗と涙。まさに青春。感動しました。酒場で居合わせたおっちゃんらと相当盛り上がっていました。て、自分もおっちゃんか。いろんな人たちと時間と空間を共有できるいまが嬉しい。
明日もまたどこかで新しい物語がはじまりどこかでおわります。
た〜まや〜。夏。
Yasufuku

素人ムービーのススメ

なんだか田舎もデザインも礼讃しすぎると気持ち悪いもんだな、
デザインのはしくれにいる者なら「いいんです!」って言うんじゃなくて
「ええなあ」と思わず言わせてしまうもんを提示したいもんです。
なんて思うと
そんな田舎のデザインブログとして何を書けばいいのやら。
ま、あまり深く考え込まず。

近頃は虫たちの鳴き始めを聞き、燃えるような朝日を見るのが趣味。
昼は暑いんですもの。田舎のおっさんを見習ってサマータイム。
燃えるような朝日

さてさて先日友人の結婚式に参戦。

他の皆さんの映像を見ていても思いますが、クオリティが上がってきていますね。

近頃私が個人的につくるものは、つくるつもりじゃなかったけど前日になって映像が
やっぱりほしくなってきたという友人のために3〜4時間でちゃちゃっと仕上げて、、
という便利な切り札的役回りのものが多く、
愛の大きさでは完敗のへなちょこ映像ばかり。
(今回は徹夜で1つ、2次会前に2つ、計3つも作りました。働くまい、楽しもうと思い、装備はいつもの1/3でしたが、結局頼られるのが嬉しくて、いつも以上に働いてしまうのでした。仕事ではできない久々の秒刻みスケジュール。)

素人ムービーはプロがつくるものなんかよりも心を動かします。
プロがつくる何十倍も時間をかけて、その贈られる相手のことを想う
というプロセスを経て、人を巻き込んでつくられる、
つまり愛がこもってるからです。
せっかくの機会なのでお金をかけずにいろんな人を巻き込んで、
そんなプロセスも含めて楽しんでみては。

近頃ははじめからPCに入っているアプリケーションの操作も簡単になってきていて、
MacならiMovie、WindowsならWindows Movie Makerで手軽に作れます。
友人が教えてくれというので、ご持参いただいた
Windows7仕様のMovie Makerを使ってみたところ、
勝手に音楽に合わせて写真が切り替わったりするのには驚きました。
高度なCGを組み合わせたり、放送クオリティを目指さないのなら、
プロ用のソフトなんて無駄にややこしいだけ。

そんな愛すべきストーリーたちは好きなので、
わからないことあればお気軽に聞きに来て下さいませ〜

もちろん、余興には映像以外でもいいと思いますが。
仲間はいいもんだ。
集合写真
次の式に向けてとりあえずKARAの練習をしようと思います。
Yasufuku

SKETCH TO IMAGE

過去のデザイン物の中から一部ピックアップして、初期スケッチと最終イメージを並べてみた。初期スケッチがどれほど力をもつかを考えてみる。
I compare the difference between an initial sketch and the final image. How much power does initial sketch have?

DM
DM完成物とスケッチ

TreeHouse
ツリーハウス初期スケッチと完成イメージ

こんなふうに、初期スケッチが最後まで力を持つことも多々あって、我々はこれらに対してなかなかの信頼を置いて考えています。初期スケッチにはあとでいろいろ付いて来てしまう余分な情報が適度にそぎ落とされているから、ある意味大事なことが見えたもの。もちろんその余分なものたちを様々な事情で無視できないときなど、デザインプロセスを経ながら全く違う形になっていくことも多々あるけれど、後で見返して考えると「あっ」と思わせてくれる。だから最初に書きまくったスケッチやダイアグラムは最後までとても大事にしています。併せて、これらを寄せ集めてこの段階でチーム内の意志共有を図ります。言わば冒険の地図みたいなものですね。プロジェクトの成否は、この地図がしっかり描けて、共有できているかに掛かっているといってもいいでしょう。雑なのは気にせず、ささっとスピード重視で描けるものたちをかき集めてプロジェクトごとにアウトラインを描きます。媒体に関わらず、team cottがデザインプロセスの中で最も大事にしている作業です。

そして初期スケッチを最終イメージまで一気通貫かませると、とても気持ちいい。そんな瞬間に出会うのを夢見て、できるだけたくさんの牌をツモります。アイデアは後からぺたぺた付け足すのでなくて、はじめのうちにぐるぐると巡らせるのです。

さて今日から田舎のおっちゃんたちを見習ってサマータイム。おてんとさまのおとなしいうちに仕事を済ませようというエコな考え方。一応の業務時間に変更はありませんが。あと、英語にて同時通訳的になるフレーズを挟むことも時々あるかもしれませんが、どうかお気になさらず。喜ばしきオンリーイングリッシュなお仕事は書類が手強い。文語は、どうも苦手だ。もっとお勉強。
If you couldn’t understand from my poor English, please feel free to ask me details. (also from my poor Japanese)
Thanks.

Yusuke Yasufuku

タオ

断片の集合と文脈

気付けば一ヶ月以上記事を書いていなかった。ツイート用付箋をデスクトップに配置して気付いたことをぽんぽん書いていくようにしていたのだが、半年間で溜まった未ツイートメモは13,000字を超えていた。携帯電話のメモも含めればゆうにその倍はあると思う。新しい情報ツールを半年余り。感じたのが「意見を言う、あるいは議論をするプラットフォームとしてはあまりにも断片的で貧弱すぎる。」ということ。私の場合は飛び道具になってしまいうる言葉を精査するせいかツイートの腰が重くなり、結局うまく使えない。また、何かに感動している時や人と何かをしているときに携帯電話に手を伸ばせるほど器用でもない。そういった点から考えると、どうも合わないようだ。本来はそういったことを考える以前の道具でにこにこつぶやいていればいいのだが、情報を商売道具とする者としてそうはいかない。初期感情をそのままむやみに四方拡散するという大衆的であり昨今のマスコミ的でもある行為はツイート対象とされた者たちの安易な選択を煽り、見るべき方向を見失わせる。そのため、不特定多数の皆が報道等で知っていることに関して一個人では裏の取れぬ情報を発信するのであれば特に注意が必要だ。

たとえば分かりやすいので政治を例にする。初期感情の集合による世論が即座に国中に広まるので世の中の気分を見るのはいいが、それによる決断がなされてしまうようになると、政治が木を見て森を見ずな方向に進むだろう。(これは農村にあるデザイン事務所ウェブログで政治的なことや意見はあまり書くつもりはないので具体的なことは書かないが、)能力の有る人や士気のある人たちが批判も恐れず奮起して何か変えてやろうとの熱意で勢い余ってタブーに少しでも触れてしまった結果、叩かれて引きずり下ろされる事態も起きている。結果、腫れ物に触る術に長けてはいるが肝心の能力のない、言わば単なる良い子たちが生き残る。今後も政局では大切なことを差し置いたまま誰はふさわしいふさわしくないと人事に関する議論ばかりに経費がさかれ、首相が代わり、政権が代わり続けるということが起こりうる。世の中の気分を代弁するばかりでは結局すぐに捨てられてしまうのはデザインに関してもそうだ。個人の意見が瞬時に遠くまで届くのは良かれども、ゲームではないのだから多方に情報を飛ばす力のある者ほどそれ相応の情報倫理が求められるべき道具だ。

そういう理由で、ツイートは溜まりに溜まった。それらの断片的にまとめられたメモの集合を利用することはできまいかとも思って置いておいたのだが、変にまとまっているので、何かを考えるときどうもそこから拡張しづらくて結局お蔵入り。掘り下げられぬまま放っておかれたごみのような戯れ言はかりが溜まる一方だ。短くまとまっていることもいいのだが、文脈を理解し、行間を読み取ることも実社会の中では相当大事なこと。ある意味自分の都合を話してばかりで、文脈を無視した否定すら大きな力を持つ世界はどうも危険だ。たとえばその究極が京ことばというもので、それらは恐ろしいほどに裏の意味を含み、そういうものの重なりが気品を生み出していた。訪問先で「おぶういかがどすか」と食事やお茶を勧められたらもう帰ってくれということを意味していたり、「よう勉強したはりますなぁ」という相づちは、興味がないので話題を変えてくれていうことを意味していたりする。その社会で生きるためにはそのルールや文脈を前提としなければ成立しない。それがいいというのでなく、日常にはそういう世界も重なっているという話。光の当たっている断片を捉えた議論ばかりでなく、きちっと闇の部分にも向き合っていかなければどうも先が見えない。そもそも「奥ゆかしい」とか、「しつらえ」、「間」などの概念に見られるように、日本は気品に満ちた文脈にあるのです。多くを語らねども隅々まで行き届いた配慮を認識させる。ある意味デザインの考え方とも近いそういう日本的美意識は世界に誇れるものだと思うのだが、今日はなかなかそういったものが出てこない。そこらの日本人のアイデンティティーがもう少し生きる情報技術のかたちというものがきっとあるのではないかと思うのですが。

風に吹かれてゆらりゆらりと

まぁそういうわけで今後はツイッターをもう少しゆるりとコミュニケーションツール、あるいはあえて飛び道具として利用したい。ある意味一部の断片の集合をタイムリーに閲覧できるのもコンセプトとしてはおもしろいがそれが全てでない。そんなに声高に言いたいことが別にあるわけでもないのに、1日1回何か言っておいた方が良いのではないかという脅迫にも似たシチュエーションの不自然さに気付くのが遅かったか…。わざわざぶつぶつ言おうとしなくていい。またブログにおいても、物事に対する知見は控えようと思う。文章という手段で世の事象について人様の前で物申せるほど優れた人間でもないので戯言はノートの片隅にでもそっとしまっておいて、農村デザインの日々についてもう少しゆるりとして書いていければいい。言いたいことの本質でなく字面の片っ端を拾い上げてどうだこうだと言う人もいて、文字列はとんでくので意見は直接に。そしてしっかりと文脈に生きる。少し前からそんなことも思いつつ、ギアをニュートラルに戻し、何事ももう少しナチュラルに、アナログベースで考えるように戻した。

そのせいか、仕事でもそうでなくても人に会うことは少し多くなった気がする。
後輩たちに会い、希望がある奴ほどスパルタにケツを叩く。また違う後輩には自分の教えたことがしみ込んでいることに嬉しさを覚える。先輩に会い、馬鹿な話9割5分、アドバイス5分をいただく。近所のおやじに会い、日々、自然界のご機嫌について話す。じゃがいもをもらう。村の重鎮に会い、夢を伺う。友人に会い、現状についてあれやこれやを話す。あるいは特に話さず、その場の心地よさに身を委ねる。同士に会い、手の内全部見せて向かいあう。大学の教授に会い、ありがたいお言葉をいただく。何か始めようとしている、あるいは何かを始めた仲間たちに会い、勇気をもらう。ああでもないこうでもないと馬鹿なことをいいながら真剣に取り組んで来た時間というのは、今になってもにおいたち、力を与えてくれる。

水にたゆたうクラゲのように
はなれ、またいつの間にやら集まって来る。

そんな時をまた重ねていきたい。

ああ、もらってばかりです。
今日もありがとう。
少しでも還せますよう、もう少し。
そして、少し先ですが、秋冬、春先に楽しいお知らせができそうです。

蝉が鳴く声を聞きながら、もうすぐ夜明け。
何せ今日のたわごとを要約すれば、トイレは少し臭いぐらいでちょうどよいということ。

美しいものには人の心を救う力がある。
いや、むしろ人の心を救う力を持つものを美しいと思う。
今日もそう信じ、皆の幸せを願う。
夜明けに窓を開けて農道を走ればどこかにそのまま飛んでいけそうな気がする。
だったら白い入道雲に乗っかって夢を探しにゆこう。
タオ。無為自然スタイルで。

トマト、キュウリ、なすび、かぼちゃ。
夏野菜が食卓を彩るようになりました。

安福
木々の間にて
©TRUNK DESIGN

白インキ

近頃は、はまるはまる。白インキ。
白は何にでも良く合うのだが、特に黒い紙や少し赤みがかったクラフト紙と相性が良い。

白と言えば、普通は紙が白い前提で普通は表現されますが、色紙にもともと付いた色を最大限に生かしたいときなどはは白いインクを使います。普通のプリンタで塗らずに表現していた箇所に逆に塗ります。

地色に白を引いても白に紙の質感が重なってまたおもしろい。
(質感を出したくない時はオペークインキと呼ばれる種類のものや、二度刷りなどで対応しますが、せっかくなので特別な意図のない限りは少し透けるインキで紙を生かして楽しんでみたいものです。)

どれーにしよう。
base botany ポストカード
base botany ポストカード
縦長のものは1色刷り。横長のものは2色刷り。

左下の、白地にピンクと茶色地にピンクの色は実は同じ色で、目の錯覚なのです。(本当はピンクでなくて、蛍光オレンジのインキを使う予定ですが。ひとまずピンクでプレビュー。)

これを明度対比といいます。どうみたって白地にピンクの方が沈んで見えますよね。これはどんなに修行を積まれた方でも感覚的にはそう見えます。人間の目ほど信用できないものはありません。
周りが明るいと、自分が暗く見える。まわりが暗いと自分が明るく見える。
人間の感覚は常に周りと比べて自分を認識しているのです。

余談ですが、相対性の話。これは知覚の話でなくてもきっとそうだと思います。

みんなが一生懸命徹夜して学校に泊まり込んで制作に勤しんでいるデザイン系の大学では寝る間も惜しんで一生懸命にやっていた。しかし卒業してアルバイト生活になると、やろうと思ってもなかなか腰が重い。毎日明日でいいやと先延ばしにしてしまう。どんな環境でも芯を持っていたいものですが、実際はなかなか難しかったりする。そんなふうにひとはまわりとの関係性の中で生かされる相対的な生き物なのだから、これをやろうというとき、周りの環境をつくっていくのもひとつかもしれませんね。cottで言うならば、どんなに田舎でも、研究職的にデザインを追求していく世界に身を置くための環境整備を少しずつ。

また、図を白で描くことにはそれ以外にも意味があるような気がしています。
普段何も感じない白について意識する。
ということは一般的に我々が使う白い紙に黒いペンで絵を描いているとき、黒い絵を書いていると同時に黒いペンを使って白い紙の白で絵を書いていることをも意識してみる。そんな意識に訴える効果が白インキにあるのではと思います。

白い紙ベースのレイアウトで白の伝える意味をより考える。
そんな美的感覚向上を図るという意味でも白インキは素敵なもの。白で印刷できる廉価なプリンタが欲しいところ。

たとえば実家暮らしから一人暮らしになったときに母のありがたさを感じるのと同じように、普段意識しない事象について意識してみること。
そんな、色と人間のはなし。
18,9のときにとったカラーコーディネーター1級が、ここにきてじわじわやくにたちはじめている。

安福

愚行四年目の所見

近頃はいろんなところに足を運びながら町内のヒアリングをしたりしながら作戦を練っている。地域に対して解法は地域ごとにゆっくりと導かれて行くもので、本当に地道な作業だ。

田舎に舞い戻ってデザインをはじめるという愚行

先日、ランドスケープアーキテクトの山崎亮氏が情熱大陸に取り上げられていたのも記憶に新しいが、地域に向けられる目はこれからますます大きくなってくるだろう。(自己紹介レベルで彼の魅力が伝わり切ってない放送には少し残念だったが、自分の周りでは好評だったのできっと日本中に大きな影響を与えたに違いないと思う。)きっと「私も田舎に帰って…」という若者たちもいるだろ。大変歓迎すべき流れであるが、誤解を恐れず言ってしまえば、20代30代そこらの若者がたとえば田舎に帰ってデザインで地域を盛り上げるなんてことは基本的には愚行だと思っている。専門家として派遣されるということと、そこに住んでということでは意味が違ってくるように感じている。まちの皆は、面白がって話を聞いてくれたり評価をしてくれるのだが、農村では新しい価値を提示して意味を理解してもらうまでに時間がかかるし手間もかかる。

汗をかいて人に会いに行かなければ批判ばかり出回る。「本当にいいものをいいと言いたいだけだから農産物のブランディングをやらせてくれ」といえば気違いだと思われる。ブランディングはどういうものなのか分からないので実際にそれをやった後、効果が目に見えなければ「怪しい商売してるあの家の息子」との視点は拭えない。都会で出回る農産物がどんなものか目にする機会もないので自分たちの育てるものがいいと本気で思っている人が実は少なかったりするかもしれない。失敗ができない。だから実力、そしてコミュニケーション能力を要する。なんだか理不尽な気もするがそこまで背負わなければならないと言っても言い過ぎではないケースも多いと思う。
そんじょそこらの覚悟ではそうすべきでないだろう。私の2倍、いや、3倍近くにもなる大先輩の方々が一生懸命村のことを考えてされている。

だから残念ながら今のところcottとしての多くのクライアントワークは田舎のものではない。もちろん少しずつそっちにシフトしていければとは思い続けているが、実際問題としてあまり需要がないので難しい。某携帯電話ショップである契約をつければ一緒にもらえるPCやPSPみたいなもので、あればいいけどなくてもいい。だからなかなか仕事として成立しない。
もう一歩踏み込んだ何らかのシステムを描かなければこの状況は10年やそこらで大きく変えることは難しい。それを描く自信はあるが、それを押し切る自信は全くない。農村は基本的に自己主張するところではないので、生活者が提案することと、外部の人間が提案することは全く性質が違う。失敗すれば、一族が村八分である。

だが本当に地域の価値や人、文化が代謝して行くためには生活者からの提案をベースとすべきだとの思いもある。だから少しずつ背中を押してやれるような仕掛けをさりげなく提案する。まちづくりは開発ではないのでこちらの都合で働きかけまくることではない。待つことも大事。待つづくり。

村の幸せとはなんだろう

携帯電話やインターネットなど、急激な情報化の影響を受けてか、農村地域の若者の視点も極めて現代的であるところも多いだろう。そのような場所における若者の田舎で幸せは、村の上の世代の幸せに一致しないところも多いのではないか。村にあまり関わる場所のない若者は基本的に意見を言う立場にない。だから出て行く。村の上の世代が村を回すのは田舎の基本原理として続いて来たもので、若者は本来田舎では村作りに対して頭を出さないし、出せないので、そもそも意見が通らない。それを通すことは実はタブーに触れることなのかもしれない。
「どうしたもんか。この溝は埋めるべきなのかどうなのだろうか。」としばらく頭を抱えた時期もあったが、村を家族の集合というレベルに落として考えてみれば、孫や子の幸せ=村の上の世代が幸せというのは間違いない。だから少しは埋めてもいいはずだ。

今思えば小さい頃、本当に住みやすく感じていた。次の子にも当たり前にそれを感じさせてやりたい。その想いひとつでまだもう少し、いけるのか。今年度は何度もそういった自問自答を繰り返すことになりそうだ。個人の想いが入るのでここに書くべきか迷ったが、以上が正直なところ。少し遅くなったが、愚行四年目に入っての所見である。

それでもぜひUターンして正面切って、村を興したい愚弄者は、心から歓迎する。心豊かな生活ができる農村であり続けるために。

野の花Cafe
↑すこしセンスが上の年代ではあるが、町内で一番おしゃれな野の花Cafe。倉をどう活用するか、楽しみ。
蛍
↑事務所で夜な夜な作戦会議をしていたら飛んできた蛍。そういえばもうそんな季節。田植えもはじまっています。

追記 11/06/06 ——————————————

経験論的なここだけの話

先日、Uターンして村を興そうと思うなら骨をうずめるつもりで戻ってきて本気でやれと書いた。真面目な話をすればそうだが、さらにリアルな本音の所を恐れず書いてしまおうと思う。

田舎の男たちのコミュニケーションの基盤は昔から酒、女、たばこ。それらの周りに村の男たちが群がる。農村地域の魂である米から生まれる神様のしずくである酒に、新たな時代を託すべき子供を産む聖なる女。権威の象徴であるたばこに火をつけ狼煙をあげる。共通話題と言えばそういったものたちや近所の噂話、今年の天気、田んぼの水、いのしし、マムシの話など。自然界のご機嫌について語りながら嗜好が全く違う村人たちをまとめあげる。

最近は表面的にきれいなものばかりを見ようとする現代のシステムによる大きな規制の波が村にもやってきている。おかげで、そんな農村の魂を隠してしまったかのようにやさしい親父が多い。親父の求心力が弱くなって来ているせいか、若者は家を出て行くし変に真面目すぎてぱっとしない。田舎で何かしでかしてやろうというこんな愚弄者も出てくる。そしてまだそれを怪訝そうに見つめ影で叩く元気のある親父たちもいることに感謝している自分もいるかもしれない。

私たちが中学生の頃ぐらい。そう、2000年に入るか入らないかぐらいまでは原付を改造して大きな音を立てながら猛スピードで暗い田舎道を派手に照らして走るやんちゃな坊主がたくさんいたのだが、近頃はうるさい音といえば夜中に走る大型トラックの音ぐらいなものだ。親父に力があればあるほど反発するエネルギーも湧くだろう。でも結局は最大の敵である親父にはかなわないことを知っているのでそのうち丸くなる。息子がグレたら親父もどうこうせずにどっしり構えていればいい。治安がどうだという話は別にして、若い頃はそれぐらいやんちゃでもいいと思うのだが。

まぁ神様とか現代のシステムへの危惧の話をすれば胡散臭いしそんな昔話はどうでもいいのだが、要するに農村を回し続けて来た原理は高尚ところと繋がってはいれども、高尚な所にはないということだ。だから本来の農村として限界集落を救うのであれば、それは実は高尚な理論ではないと思う。だから最近流行りの「コミュニティ」を「デザイン」と言ってしまうのは都市計画的なレベルの話で農村においてはまだ少し疑問が残る。

自然の恵みに感謝し、身近な素材をうまく利用し、様々な所に宿る神々についてを話題にしながら、身近な人と日々を営む。
自然という大きな関係性の中に身を置き、今日の米の中にある真理を見つめる。
文字を重ねてしまえば安っぽくなってしまうが、これぞ、農村地域の伝承され続けてきた心なのだ。

酒女タバコの話に戻るが、まちづくりにも煩悩が必要だ。村に地デジよりもデザインよりもエコよりもエロを!

内の人が農村本来のコミュニティを内から盛り上げるのならそうではないか。そんな提案ができるのはUターン者、または地元育ちであるからこそ。親父たちが真面目に徹するのなら僕らは楽しくやる。まちとむらもつなぐ。Iターン者がのびのびやれるようになればいい。経験論的であほ丸出しの下衆な話であるが、あながち間違ってはいないと思っている。高尚な世界と、俗世の狭間で一歩ずつ。

安福

旅のいろいろ

先日は讃岐へ。
時を重ねたものだけが持ちうる空気に触れた。
レトロ

味わう。そして生活者になる。

まず見知らぬ地でするのは真似をすること。
今までの自分を空っぽにして、食べ物や好きなもの、習慣、言語、言葉遣い など、徹底的にそこに居る人の真似をする。
つまり旅行者でなくそこの地の生活者になること。
いろんな地域を俯瞰してまわるのもおもしろいが
生活者になってみればまた違った見え方をしてきて格段におもしろくなる。

皆と同じようにそこに寄り添ってみることで
なぜそれがそこにそういう形で存在するのか、少しずつ見えてくる。
いきなりやりすぎてしまうとパロディに近いものになってしまうし、初めはもちろん不自然なこともあるだろうから、ゆっくりでいい。
そのうちまるで役者であるかのように、何にでも染まれるようになってくるものだ。

文化やコミュニティに潜む核心をつかむこと。
それは必ずデザインにも生きる。
だから時間はかかってもいいからそうする。

おぼつかない足下で目先に用意され続けるかすんだゴールに向かって走り続けるよりも
はっきり見える的を見据えて確信のある一歩を力強く。
他が見えれば自分のところも自ずと見えてくる。だから地域ブランディングやコミュニティ、景観に関わる人たちはそんなふうに旅をされても面白いと思う。
亀岡の朝

道中にて。

20年ほど昔はフェリーに乗って島から島へ。船に響く重低音と吹き抜ける風に興奮し、闇夜を再び走るうちに眠気に誘われて気付けばまどろみの中に懐かしい家の匂い。そのまま大人たちの会話をよそに布団の中に顔をうずめた。5時間の長旅だったのが今や2時間弱。
なんだか寂しいというか味気ない。
そう感じるのもその道中に至る道のりが豊かだったからに違いない。

今ならきっと船を待つ時間にふとポケットに忍ばせておいた文庫本を読みふけり
文庫本を閉じてすぎゆく風景を眺めながら物憂げな顔で何か考えごとをしているフリをする。
そんな時の中にすうっと身を委ねて
ザワザワして落ち着かない心を静める。
まるで僧侶にでもなったかのようにわざとキザったらしくその道中を味わう。

今日の交通網にはそんな時にふけるために十分な余裕がないのである。

無駄のない移動のためのみに特化した行為は、ため息で曇る窓ガラスの先に浮かぶぼやっとした淡い風景を眺めながらもの思いにふけるには不十分だ。

しかし、毎日の生活の中にそんな空気を感じられる時間は今こそ必要なものではないだろうか。そんなことを思いながら二十数年間の軌跡をこの地で結うべく西へ東へ東奔西走する今日。

さて、今日もまた、どこ行こう。

神戸発高松行きフェリー
トンネル
道路建設中のくもりぞら
竹ドーム

東京ミッドタウン・デザインハブ 第27回企画展「日本のデザイン2011」- Re:SCOVER NIPPON DESIGN デザイナーが旅する日本

Bussiness card for Ribbit

Ribbit名刺
DATE: 2011.05
CATEGORY: Graphic Design
SIZE: W55xH91mm
PAPER: ファンタスハッパ 270kg / スペシャリティーズ ホログラム no.761 27kg
MANUFACTURING: 型抜き
CL: Ribbit
AD/D: YASUFUKU Yusuke
NOTE: 特殊紙にUV印刷。上画像はすべて同じ紙。裏の名前面は白地に特色。

ユニセフ兵庫ニュース『Wish』vol.33

ユニセフ兵庫ニュース『Wish』vol.33
ユニセフ兵庫ニュース『Wish』vol.33
DATE: 2011.05
CATEGORY: Graphic Design
FORMAT: A4版8ページ
CL: 兵庫県ユニセフ協会
ED/CW: 兵庫県ユニセフ協会広報チーム
AD/D: YASUFUKU Yusuke
NOTE: 2色印刷の刷り色をコーポレートカラーであるシアンブルーと、補色に近い特色を選択することで、写真の色表現と文字の可読性を両立しながら印刷コストの削減を実現。

集落探訪記録1

ストロード(Straw Load)を辿る旅

– 草のルーツを求めて –
Laos, 2006.08, YASUFUKU Yusuke

Comment: かつて集落系の研究室に在籍していた頃の自主フィールドワークではあるが、茅葺き屋根に関わることが多くなった今、調査の意味を再認識し、その概要のみをここに印しておく。ラオスの農村部を巡り、住居の造りからその地域の文化コードを探った。
ラオスの集落風景
ラオスの茅葺き
田んぼの真ん中に佇む小屋/ラオス

建築様式

生活様式が類似しているためか、比較的造りが簡素でデザインコードは日本に類似している。かつての日本の原風景を垣間見た。
・様式は切り妻の茅葺き屋根が多い。
・茅葺き屋根の棟おさめが類似(日本では使われない偶数のものも多い。)
・網代天井ならぬ網代壁や網代床が見られた。
・高床式の住居も多く見られる。

茅葺(Wikipedia)
高床式倉庫

比較的発達した町では安価な工業製品が多く使われる(下写真 / 外壁を塗り直して大きな開口部をつければかなりモダンに仕上がる可能性を感じた建物)
ラオスの安価な素材で作られた小屋

ラオス(Wikipedia)

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