Home > アーカイブ > 2011-02

2011-02

淡河町まちづくりシンポジウム パンフレット

淡河町まちづくりシンポジウム パンフレット
淡河町まちづくりシンポジウムパンフレット中面
DATE: 2011.02
CATEGORY: Graphic Design
SIZE: 420x297mm二つ折り
CL: 淡河町まちづくり研究会
AD/D/CW: Yusuke YASUFUKU
NOTE: N(=NewWave)+OGO=NOGO=農+OGO
農が伸びることをタイポグラフにて表す。比例関係による法則を多く盛り込んだビジュアルによる視覚的美しさは農と共にある生活の美しさのメタファー。会場の色に彩りを添えるよう、メインカラーにはビビットなイエローを選択。地域に新しい風も、感じてもらう。

凸版/活版印刷でいくのだ

MTGついでに仲間のデザイン事務所に亜鉛の腐食版を持ち込んで凸版体験をさせてもらった。

綺麗な空間の一角に酸化しきった油のような独特のノスタルジックな匂いが立ちこめる。インクをのせて、版をベースにセット。スイッチをいれるとベルトがまわり、ペダルを踏む。
半自動式活版印刷機
がちゃこん。
空押しとインクのせバージョン
左はインクをのせず、右はインクをのせて。
左は大成功、右は少し失敗か。
昔ながらの本来の活版印刷から言えば、紙を凹ませない方がいいのだが、近年紙を立体的に捉える動きがあって、強く圧をかけて紙を凹ませることもグラフィックデザインの常套手段となってきた。
実際に機械に触れてみると、ただ単に適当に圧をかけて機械を動かすだけではないことを知る。インクのノリや粘り気、圧力の掛け方、位置合わせなど、本当に細かな微調整が必要なのだ。インクのノリが悪いから圧を強くしたら余計なところにインクが付いたり、凹みすぎて裏が盛り上がったりと、本当に微妙。これも経験だ。デザインするものが現場を知ることはいいものをつくる上で必須。
がちゃこんしはじめたら止まらない。
紙は特Aクッション1mm。Bar cottのコースターに利用。

宣伝ですが、
トランクデザインさんはこれから活版印刷事業始めるための準備中。価格についても乞うご期待!

禊の儀
2月10日に執り行われた禊(みそぎ)の儀。耐える男たち。
御弓神事という鎌倉時代より続く伝統行事の一幕。本番が2月11日午前十時で、彼らにより天と地が繋がれます。特別に信仰心を持つわけでもない、地元の普通の青年たちです。
淡河八幡神社の大鳥居に架けられた直径2mの的に矢を放ち、悪霊を射抜き、五穀豊穣と厄災解除を祈願します。中学生の頃に真ん中に当てて飛び交った歓声が気持ちよかったのを思い出しながら取材をしていました。

追記 2/11
雪模様の中、御弓神事無事終了。
御弓神事
しめはもちほり。みんな必死。1年でおばあちゃんが最も俊敏になる瞬間。食に貪欲な田舎の皆さんはとても健全です。音楽ライブよりもちほり。
もちほり

100色名刺

cott100色名刺
cott100色名刺
文字組の訓練がてら、名刺を制作。
あえていろんな字体を使ってみた。
文字ばかりの名刺なんて、フォント選んで配置するだけやんと思いますが、実はそうでもない。和文(日本語)と英文(英語)、数字や記号などの組み合わせや、サイズ調整、要素の統一と変化。見えない規則性。感覚。細かい配慮の積み重ねこそがデザインされたと感じる見た目を作り出すのです。

電通の社員が100人で100色の名刺というのは有名な話だが、1人で100色。ひとり電通。

シルク印刷の表面は金。裏面はスミ。ちょっとした印刷見本にも使えるかな。
相手に何色を渡すのか、迷いそうだ。ババ抜きみたいに渡してもおもしろい。名刺が埋もれてしまわず、覚えてもらえるように紙をデザインするのでなく、名刺を渡す行為に概念を拡張して考える。お好きな色がある方は、お早めにご予約を。笑

第二回淡河町まちづくりシンポジウム開催のお知らせ

日時: 2月20日(日) 13:30〜16:50
会場: 神戸市立淡河中学校体育館 (神戸市北区淡河町行原字中沢179-2)
テーマ: 「魅力ある10年後の淡河町のまちづくりを語る
         – 若者に魅力のある農業・6次産業の推進 -」
プログラム:
第一部: 基調講演 13:45〜15:00
近畿農政局 次長 磯部 義治さん
第二部: パネルディスカッション 15:10〜16:40
コーディネーター 細尾 勝博さん (淡河町まちづくりアドバイザー)
パネラー(予定) 常深 輝夫さん (神戸市アグリマイスター)
藤原 一哉さん (花卉専業農家)
辻﨑 まさゑさん (道の駅淡河「淡竹」会長)
森本 聖子さん (中山市民農園オーナー)
ささやかではございますが、プログラム終了後に懇親会を予定しています。

駐車場: 淡河中学校ロータリーおよびグラウンドをご利用下さい。

住所、氏名、電話番号、電子メールアドレス、ご所属、参加人数、懇親会参加/不参加の旨をご記入の上、下記連絡先までメールまたはファックスにてご連絡下さい。
申し込み〆切: 2/18(金)
お問い合わせ: 淡河町まちづくり研究会

〒651-1615
神戸市北区淡河町荻原830-10
(北区役所 淡河連絡所向かい)
TEL: 078-220-8095 
FAX: 078-220-8068
E-MAIL: info@ogo-machiken.com

流すその水はどこへ行く

地球環境問題
地域コミュニティ
労働問題
ニート
自殺率の増加
虐待
その他倫理や道徳に欠ける凶悪犯罪

現代的な社会問題の多くは煙や水の流れる先に関して無関心であることが大きな原因となっているように思う。

自分の都合のいい情報を得るインターネット。大変有用であるが、自分の望まない不要な情報は入って来ない。目の前の風景の意味が薄れ、たとえば究極の話、「隣の住人が死んだ」すらも不要な情報だということも多いにあり得るのが恐ろしい。

そういう意味で、田舎はとてもいい。不要な情報がたくさん入ってくる。
うちの集落にも3羽ガラスなるものがいて、バイクで村を走り回り、地域の情報を瞬時に伝達する。その正体は、ただの世間話が好きなおばちゃんなのだが。内容は特におもしろみのある内容ではない。(これは悪口ではない。礼讃だ。)自分の興味ある内容について語られることはあまりないが、それは決して否定すべきものでなく、地域に潤いをもたらしている肯定的な存在である。(そう思えないと、地域に溶け込むことは難しいかもしれない。)

田舎が閉鎖的だと言われる所以は、日常生活において常に関わってくる濃密な関係性にある。その土地を守り続ける定住者として地域を常に監視しているから、何かコトを起こそうにも起こしにくい。監視されているという言い方は悪いかもしれない。見てくれているのだ。子供だって見てくれている。美しく言うならば関心を持って関係性を保ちながら支え合って生きていると言えばいいだろうか。

身の回りの風景についての情報を多く共有することにより、一体感が生まれる。(その反面、外から見て閉鎖性を感じさせることになる。)自分が流す水や煙がどこでどうなるか、理解を深めることができる。
おかげで、火をたくときに煙の行く先を気にしたり、ゴミの出し方を守ったり、庭の体裁を気にかけたり、生活態度を改めたりしようと思うことができたりする。無駄なしがらみや動きが増えただけではない。便利であること、自分の都合がまかり通らないことも地域を守り育んでいくために大切なこと。それは相手を思いやることの延長だ。最近はエコと叫ぶよりも、当たり前に社会とつながり、相手を思いやることの方が地球環境問題に対して有用な気がしている。

身近なひととの繋がりや地域の風景と自分との関わりが増えること、それこそ豊かな社会と自身の暮らしを築くカギだ。

先月食べたへそもち。餅米に米を混ぜてつくる。
へそもち
いわゆるとんど焼き。年々規模が小さくなってきてはいるが、これはおそらく生まれてから二十数年毎年当たり前のように続いている。書き初めを燃やして高く舞い上がれば字が上達するそうな。当たり前にこんなイベントが日常にある毎日に感謝。
来年はもう少し人を巻き込んで規模を少しずつ戻していければ楽しいだろうなぁ。

安福

映像のWORKSについて

cottでは結婚式のプロフィールビデオや、イベントのプロモーションビデオ、VJなどの映像関連の依頼も承っていますが、人の顔などが映っているものも多いため、cottのプライバシーポリシーに基づき、年始より映像コンテンツのWORKSへの掲載を取りやめています。ここ最近、検索エンジンより検索されていたので代わりにここでお知らせさせていただきました。

ご覧になられたい方は一度ご連絡いただければアドレスをお伝えします。お手数をおかけしますが、ご理解のほど、よろしくおねがい致します。

農村地域に対してクリエーティブには何が可能か。

説明も何もなしに、昨年末のWEBサイトリニューアル時に掲げさせていただいたコピー「農村地域に対してクリエーティブには何が可能か。」。
今日はそれに対しての考えを書こうと思う。

長くなりそうなのでまず結論から言うが、何だって可能かもしれないし、何もできることはないかもしれない。それは依然として疑問符で、あえてそれをそのまま掲げた。

デザインはいま、社会の需要に適合するもの。

だからといってデザインに対して迷いがあるわけではない。それはそれ。これはこれだ。潜在的ニーズを探り、飛躍的な発想で生活を豊かにするデザイン。
その力を信じていながらも、信じているからこそそこに適用できるかどうかを考えるのだ。つまり、「デザインでこう状況を変えることができると確信していること」と、「そこにそのデザインが必要か」どうかというのは別問題である。
デザインは必要とされなければ用をなさないし、多くは実行と他者が伴うものなのでダビンチやアインシュタインのそれのように100年後には理解されるだろうと先手を講じることは難しい。

そういうわけで「田舎はださい。だから地域にデザインを。もっとブランディングや情報の風通しを良くしていこう」と声高に言いたい訳ではない。
別に夢の田舎にするつもりはない。本当に必要とされていないところにこちらの価値を押し付けるのは乱暴だ。
例えるならばボクシング部員にバイオリンの弾き方を教えるようなもの。

よい地域とはどういう地域か。

デザインで地域の見え方を良くすることで、地域が経済的な発展を遂げるための方法論は至って明快だ。村の総意を問い、顧客の声と照らし合わせながら、そのゴールに向かうブランディングの方法を確立する。
しかしあくまでもそれは地域が経済的発展を遂げるための方法論である。

地域が経済的な発展を切望するあまり、地域の心がおいてけぼりとなってしまうのでは地域が地域たる意味がない。地域に訪れる人が増え、成功に見える事例も、実際には地域の自然や安全なコミュニティが犠牲にされていたりする。それはその土地に生きる者が望んだことでもないだろう。
ものごとには全て一長一短があり、それらは表裏一体である。

繰り返すが、発展とは人が増えることでも産業が発達することでも文化財が保存されていることでもない。本質としてあるのはそこにいる人が安心して幸福に暮らし続けられる地域であるということ。(たとえば3世代以上の定住率だとか離村率というような指標で近似的に量ってみてはどうか。)その一要素として産業、雇用、(未来を感じられる程度の)人口、安心なコミュニティ、健康、医療保障、教育、などがあるわけだ。「それらはどういったバランスを保てるのが一番良いのか」という問題に対しては地域の数だけ解がある。

そういう考え方で、例えば地域が閉鎖的だからもっと情報の流れをオープンにすれば地域が良くなるのかを考えてみるとどうだろう。ある部分ではそれは必要で、ある部分では必要ないかもしれない。ああしたらこうなるから、こうしようという単純な議論でなく、ケースバイケースで少し掘り下げて多角的に議論してみるといい。

活性化とは何が潤うことか。

地域活性化という単語がよく使われているが、何をもって活性化と言うのかはケースバイケースであるにも関わらず、乱用され、結局のところ何を目指しているのかわからないまま何かしらのイベントなりが行われているようなケースも少なくない。
本当によい地域とはどういう地域でありどういう地域を目指すのかをその地域ごとに設定し、落とし込むこと。この大切な議論がなされぬままでは何の意味もない。

もちろんその議論すら持ち込めない地域も多くあるし、そういう局面になるであろうと誰もが予想できるような状況であっても結局のところ直面して本当に困ってからでないと動かないケースも多いし、困ってからはお手上げ状態でこのまま終わるしかないというような状況になってしまうケースも多いだろう。
そこに地域ブランディングの難しさがある。

寄り添い、地域の一員として日々暮らすこと。

cottとしての農村への意識としては村を変えて行くというよりは、そこにあるんだからそれは良いほうがいい。という意識だ。
もちろん個人的にはもう少し先進的な試みなどを推し進めていけばいいのではと常日頃から思っているが、自治会の役員クラスのじいちゃんならまだしも、こんな若造が声を大にしたところで皆ついてきてくれるはずもない。田舎では自分の考えは自分がそれ相応の役職について並の生き方をしていなければ通らない。並の生き方とは、たとえば妻子を持ち、正社員で長年勤め、真っ当な収入を持ち、休日には田畑を耕し、村の付き合いに参加することで、かなりの時間と労力がかかるのである。並以上だと村の付き合いに参加しにくいほど忙しいだろうし、並以下だとはなから信用されない。村は自己実現する環境からはほど遠い。

ただし常にデザインやブランディングという観点から先進的な提案の用意はしておく。提案をしてはみるが、それが必要とされていなければする必要もない。その隙間を縫って進み続けるだけ。そういう意味で、可能であり不可能と述べた。
茅葺き軽トラバー

地域の事情

誤解を恐れず述べるのならば、古き良きの奨励だとか自然だとかそんなことはもはやどうだっていい。もちろんそれらは農村地域の資源として有効に活用すべきだが、当たり前に、そこで生活し続けてきたものを外からああだこうだと言われたところで急に何の話かと思う。

ブームでこられたのでは地域に溶け込みにくいのは目に見えている。
浅はかな考えで来られたのでは、来られる側もいちいち構えてしまう。
地域には暗黙の了解的なことが多くあり、それらを教えるだけでもかなりの時間を要する。だからそこに骨をうずめるほどの気持ちで来てもらわないと困る。
骨をうずめる意思(家を買う、土地を買う、妻子を持つ、などを通して見る)が見えないと「どうせよそもん」と、意見に力を失う。地域に意見を伝えても受け取ってくれないことが多い。

都市住民の事情

とはいえ、いきなり骨をうずめる覚悟で来いと言われても、実際田舎の生活や付き合いがどれほどのものかもわからず、いきなりそこで一生暮らす覚悟など普通は持てるものではない。田舎で付き合いが必要というのもわかる。来てみたら意外に付き合いが想像していたほどではないという話もあるし、やっぱり合わないというケースもある。都市、農村と関係なく皆が幸せに暮らすことの出来る糸口は少しずつ探っていかなければわからない。

地域は誰がつくるか。

地域は結局のところ当たり前ながら住民がつくる。先進的なことを言う人がつくるのでなく、みんなでつくる。だから都市的で先進的な価値観も必要であり、農村特有の古くからの価値観も必要だ。
茅ティピ
地域に貢献するのは慈善活動ではない。というか、慈善活動とは思っていない。自然にその場所で育った者の習慣をそのまま遂行しているだけだ。

私たちの小さい頃、育ったその場所を魅力的に感じさせてもらった恩を当たり前のように次の世代にも感じてもらうような地域づくりをする義務がある。ただその義務を果たすだけで、村を変えるだとかそんな大それたことをしようとするつもりはない。義務というか、昔からそう続いてきた。そういうものである。どういう風に自分はなりたいとか、自己実現めいたことを考えているわけでもない。

たとえば、別に仕事内容だって田舎のものやオーガニック、ナチュラルなものにこだわっているわけではない。都会のデパートの商品のブランディングだってするし、都会のクラブで一晩中大音量の音楽のもとVJだってする。深夜にラーメンだって食うし、酒だって飲む。田舎の自然や家でとれる野菜などももちろん好きだが、それをエコやロハスというような概念で捉えたことはなく、当たり前のようにあるだけ。むしろここで一緒に育ってきた仲間が好きで近所の人や家族が好きで、たまたま仕事がデザインというちょっとハイカラな仕事だったというだけ。田舎がない人に言わせてみればそれはずるい言葉なのかもしれないが。

最後はデザインの話でなくなってきてしまったが、その地域にそれぞれが寄り添い、一員として日々暮らすこと。そのプロセスに冒頭で挙げた疑問の解を求めよう。あなたの好きな地域でなく、あなたのルーツの地域で自分らしく生きる術を授からんことを切に願おう。

2/4 追記
ちなみに難しく書いたが、移住組はなんとなくでも飛び込んでみたらいいし、迎える側は意外と何も考えてない。たぶんこの文章をよんで感じるよりもすんなり入れる。揃えるべきところでしっかりと足並みを揃え、こちらが心を開きさえすれば興味を示していろいろ聞いてくれる。ややこしい人というレッテルさえはられなければ農村生活はまず安泰であるはず。汗をかくこと。人に会うこと。

Home > アーカイブ > 2011-02

Recent Articles
Backnumber

Return to page top