- 2013-08-27 (火) 18:05
芸術、デザイン
- 印刷メディアディレクション 印刷物制作に関わるすべての人へ
- ワークスコーポレーション (2010/11/24)
生田 信一 (著), 板谷 成雄 (著), 近藤 伍壱 (著), 高木 きっこ (著)その名の通り、印刷物に関わる全ての人への入門。基本的な知識からかなり実務的な内容まで網羅。「なんとなくフライヤーとかはつくれるけど…」というなんちゃってデザイナーはまずこれを網羅し、デザイナーへ生まれ変われ。(110124)
- 日常を変える!クリエイティヴ・アクション
- プラクティカネットワーク (編)
フィルムアート社
2006/07つむぐ、すむ、まとう、いのる、えがく、おどる、きりとる…。
クリエイティブに哲学を。
cottのクリエイティブ哲学の土台をつくったといっても過言ではない、非常に情報のクオリティーが高い一冊。フィルムアート社の類書もおすすめ。
(110123) - 生命のうた
- 永井 一正
グラフィックデザイナーの巨匠、魂の作品。グラフィックデザイナーとしてではなく、人として、素晴らしい一冊。墓場まで持って行きたい。
- 四万十日用百貨店
- 迫田 司
羽鳥書店
2009/11思わず「そうそう!」と言ってしまいたくなるような田舎の事情が書かれている。農村に対する価値観。デザインに対する価値観。こんなに自分と近い姿勢でやっている人がいるのだなぁと、勇気づけられた。
非常に心強いと思ったのと同時に二番煎じなような気分も少し。
ただ、農村生活年数で言えば、少し勝っているぞと、微妙なライバル心。農村で起こる日常的な現象についてモノとヒトの関係性から的確に、かつユーモラスに言及されており非常に良本です。
地域活性についていろいろ思考を巡らせる材料になりました。高知に遊びに行こう。
- hot banana fudge
- タカノ 綾
有限会社カイカイキキ
2000年5月5日自由で迷いがなくて
透明感があってちょっぴりエロティック
タカノ綾の映し出すファンタジー
決して高尚な表現でなく
日常の会話のそばに絵がある。
決して自分には描けない気取らない絵。絵が好きとか嫌いという次元でなく、絵がまるで身体の延長であるかのよう。つまり本当に絵が好きで書き続けているというよりむしろ、それは会話と同時に手が勝手に動いていて、それだけ気取らないだけにずっと絵と向き合いつづけられるんだなぁと感じさせる。
何も気取らず落書きでも構わないから久しぶりに人を描いてみたいと思った。
- FOLK TOYS NIPPON ーにっぽんの郷土玩具
- 木戸 昌史
ビー・エヌ・エヌ新社
2009 年6月14日デザインが素晴らしい。コンテンツも素晴らしい。
見せ方の参考になります。郷土玩具といえば、民芸品がでセンスのないテレビで流行りのキャラクターものなどを思い浮かべてしまいますが、本当の郷土玩具はそんなものではない。
その場所特有の言い伝えや、手に入る素材から生まれる美しさ。
今や、これらのうちで命の灯火はもはや消える寸前のものも多いだろうが、その火を絶やしたくないと思うほど素敵な郷土玩具たちがたくさん掲載されています。
- 芸術起業論
-
2006
幻冬舎
村上 隆美術界のどうしようもなく先が見えない構図を明言し、一蹴する。
クライアントの要望や時代背景を分析して確信犯的に絵を描いて報酬をもらって芸術でなくデザインという枠の中で仕事をしている自分にとってはわかりやすい自己ブランディング,マネジメントがうまいアーティストは成功するのは当然である。
良いマネージャーと組むことができる仕組みづくりをすれば日本国における芸術産業も変わるだろう。モラトリアムに浸ることとアートで飯を食うということは全く違う
所謂自由のはき違えというものがよく起こっている
それは生活態度を見るだけで鮮明に判別できる何かに賭ける姿勢というのが根本的に違う。いろんなものを背負っている者が日々をだらだら絵を描いているはずがない
ただ描くだけしか能が無いから、そんなのは言い訳で
そうはいっても文章ぐらい読めるだろう
美術の文脈ぐらい理解できるだろう理由や文脈を徹底的に学んで、もう少し賢く絵を描いてみよう
もしくは書かせてみよう。もっと見せ方を学ばなければならないでしょう
ああ何か芸術作品をつくりたくなってきました。
血を吐くほどの努力をしてできた作品は血の固まりというくらいのことをしよう。ただ、趣味的なアートは意味がないというような言い方はおそらく反感を買うことだろう
アメリカで成功し、歴史的な文脈の中に入り込んでいくことがアートの最終到達目的地とは思わない。本人も趣味的なものを馬鹿にしているつもりはないのだろうが。
革新的なものは批判を買うものだタイトル無題はそれがよっぽど確信的でない限りあり得ないと思った
アートマネジメントの重要性はわかった
ウォーホール・デュシャン・ピカソ・北斎のすごさはわかった
しかし同じ話を何度もしないでほしい。時間がもったいない。
あと装丁がこの上なくむさくるしい…あまり電車とかで読みたくないものだ
- カンバラクニエ作品集 「RESET」
- 2004
(株) リトル・モア
カンバラクニエ一部の絵の動きが不自然なところ、構図が一定すぎるところや、表情が一定すぎるところは面白さが半減と言ったところだ。
思想を持って考えて創ること、意識的に考えないでただイメージするがままキャンバスにぶつけること、どちらも同じぐらいゆずれないような気がする。ただ、俺に許された権利は前者のみだった。
To be a fool and clever本をめくるごとに展開されていくストーリー
祈る
覘く
躍る
伸びる
感じる
悩む
飛ぶ
聴く
考えるそこにあるのは単純な人間の行為
きれいで流れるように見ることができる。
繰り返される日常は美しく、退屈だ。この人の描く女性は繊細で、美しい。
ステキです
- (un)Fashion
-
2005
Harry N. Abrams人は裸で生まれ、纏いつくして生き、裸で死んでいく。
ギャルソンがどうだ、Y’sがどうだということの前にまず「人はなぜ纏うのか」についての哲学を持ちたい。
それはある場合には単なる機能性の問題であり、その地の気候風土により服装の形態が変化する。
他民族から影響を受けて纏うようになった場合もあるだろうし。
自分の社会性をその共同体の中で誇示するために服の装飾や形態も変化する場合も多く見られる。
一方で、依然として纏わないことを続ける民族も存在する。(いつまで残るのであろう)いつの間にか裸でいることは、性器を露出することはタブーとなってしまった。
それは現代の効率化の時代では欲望や生死の問題などを表に出すことは、人間と人間の交渉を円滑に進めるために邪魔であるからだ。現代に生きる者たちは纏いすぎではなかろうか。
みんな纏うから纏う現代人。ヴィトンに代表されるように、今できるだけ高価であるものを何も疑問を持たずに纏いたがる日本人は異常である。いや、ある意味自然と言ったらいいのか。この現象を掘り起こしていけば何かしら見えてきそうで興味深い。情報化によって、人間間の交渉は直接対面してでなく、通信することでおこなわれることが多くなった。これをアイロニカルな視点から見れば、服を着ている意味などないのではないのかという気になる。服を着ていなくても交渉は円滑に進むからだ。社員全員が服を着ていない会社があってもおもしろいかもしれない。
ここまで均質に纏うようになってしまったからには次は纏わない衣というものが出てきてもいいかもしれない。男性が化粧をする民族、お笑い芸人のコミカルな衣装、チベットのおばちゃん、モンゴルの姉ちゃん、兵隊の衣装、メキシコの陽気でカラフルな衣装、インドのホーリーの後のカラフルな顔、何かしらの儀式のために全身に描かれたカラフルな曼荼羅模様、日焼け防止のための体に塗る泥、パイナップル缶が入るピアス穴、おばちゃんのデモ用のチョッキ、全身ピアス、首長、ペニスサック、4つの鼻の穴、数メートルの髪の毛、シャーマンの服、いろんな制服、ムスリムの女性たちの服、まわし、ジェントルマンの服、手術服、あらゆる地方の戦闘服、いろんなブラジャー、いろんなパンツ、いろんなメガネ、いろんな帽子、靴、他、そんなことばにあてはめることができないものもたくさん載っていてボリューム満点の写真集です。
全てがあまり先入観なく(意図してそうしたのだろうが)写真選択、レイアウトされていて服飾デザイナーを目指す人の発想の源の本としてかなりいいかもしれない。
そしてこんなにもいろんなものが溢れる世界に私は会いに行く
- デザインの自然学―自然・芸術・建築におけるプロポーション
- 1999
青土社
ジョージ ドーチ, Gy¨orgy Doczi, 多木 浩二自然の中にある美学
動物も植物も非常に美しい形態に進化してきた
それが自然の中にある美なのか自然が美しい比例形態をしているのではなく
実は美しい比例形態をしているのが自然なのか
自然という混沌としたものの中にはある一定の規則があって、美しく調和するのであろう生成パターンが一定の規則に基づいていて自然の多様な形態が生まれるのはもしかしたら宇宙的法則に支配されているのだろうか
マクロからミクロへ ミクロからマクロへ
森羅万象この世界はまことにフラクタルであるそれほどまでに多様な素材に関する黄金比の法則を見出す分析をしていることには驚くが、所詮帰納的な立場での考察であるので懐疑的な立場をとらざるを得ない
機能主義の思想が前よりも理解できるようになった
コルビジェは偉大だったダンテの『神曲』も一度しっかりと読んでみたいものだ
彼は中世キリスト教の概念に従って人間の運命のパターンを通っていく旅を表現したのだったこれだけ材料はミクロの観点で緻密に構成されており、
建築という巨大な物体はその材料のマクロのパターンで表現すればこの世界はどのようになるのだろう
そして建築はどのような形態であるべきなのか
その問いに答えはなく、人間が生み出したものは全て神というものに支配されているのではないかというのが正直な感想であるそして人間は科学によってどこまで神の領域に近づくことが出来るのか
一粒の砂のなかに世界を
一本の野花のなかに神を見ることは
あなたの掌に無限をたもち
ひとときの永遠をもつことだ
ウィリアム・ブレイク
- キミイロオモイ
- 2005
幻冬舎
大塚 愛いつもの古本屋の100円コーナーで鮮やかなスカイブルーの上に乗っかる白い文字が何かを私に物語った。
手に取り、中を覘き見る。
色の綺麗な表紙だった。
モノクロと鮮烈な色彩による紙面の構成。
本のストーリー性。蜷川実花さんの原色がとにかくきもちいい。
デザイナーさんの効果的なレイアウト。
大塚愛さんのささやくような文体の詩が随所でちいさなひかりを灯す。
それが相乗効果で光を放つ。よくできた本だった。一冊を首尾一貫する明快な主張(コンセプト)があって、一冊で完結している。つまりどのページも抜けてはならないということ。それこそがまさにひとつの作品づくりにおける理想である。
でもなぜかできすぎた感というのが残った。
写真家、アートディレクターの初期からのイメージがまるでそのままカタチになったかのような印象で、それをそのままカタチにできるって本当にすばらしいことだと思うが、何かもう一つ足りない。なぜそんな印象を受けたんだろうかは未だよくわからない。 - 建築家なしの建築
-
鹿島出版会
B・ルドフスキー, 渡辺 武信
2007/041964年に記された、土着的な建築の人間味に満ちた、アイデアに満ちた姿を広く紹介し、集落調査ブームの先駆けとも言える本。副題として-A short Introduction to Non-Pedigreed Architecture-系図なしの建築についての小さな手引書、とつけられる。高貴な建築物と建築的な高貴さに心を奪われ、他のあらゆる建築を無視する偏見に満ちた建築史とは別に、vernacular、anonymous、spontaneous、indigenous、ruralというような言葉で表されるような、土着的なものを紹介する。正統派建築史の中では建築家個人の仕事に重点が置かれているが、ここでは共同体による事業が強調される。建築の起源を聖書に求めるのか、科学に求めるのか。ピエトロ-ベルベスキは共同体建築とは「2、3の知識人や専門家によってではなく、伝統を共有し経験の共同体に基づいて働く、全住民の自発的継続的な作業によって生み出された共同芸術である」という。わたしたちの生活の智恵の基本が倹約と清潔であるが、私は旅を通してウ゛ァナキュラーな建築の持つ人間性に対して非常に魅力を感じた。
ウ゛ァナキュラーな建築の特徴としては、そのほとんど全てが自然環境に適応している、ということが挙げられる。今日の私たちのように自然を征服しようとするのではなく気候の気まぐれや地形の険しさを喜んで受け入れる。平坦で特徴無き土地よりも起伏の多い土地の魅力とは、自然をあるがまま受け入れる喜びと、外から近づきがたい場所に建築することによって得られる防衛やコミュニティの境界を明確にするという機能があることである。
都会人は機械設備に支えられた快適さを熱愛するにもかかわらず、それらの設備のないところに安息の場を見出すというパラドックスが生じている。
ホイジンガーは「新しい発見や現存する手段の改善が、必ずより高い価値とより大きな幸福をもたらすと期待するのは全く単純すぎる考え方だ。」という。
自ら環境を建築し、手入れすることの経済性や美学。自らいかに生き、他者をいかに生きさせるか、いかにして地域的な意味でも世界的な意味でも、隣人との間に平和を保つか。衣服と住居の境界は、たとえばレインコートと小テントの境界のように、時として曖昧となる。
情報が飛び交い、建築の効率化を目指したプレファブリケーション、建築部材の規格化により失われ行く土着的な建築物。私はまだまだそれらの存在性の意義は重要であると思うし、重要であってほしい。そして精神的なものと身体的なものが遊離していこうとしている今であるからこそそれらの力はさらに発揮されることであろう。現代の日本の住戸において本来の防衛という機能はあまり必要でなくなった。敵がほとんどいなくなったのである。にもかかわらず、人々はオートロックやセキュリティーシステムをさらい強固にし、泥棒等を防ごうとしており、ますます共同体に開いていない形態となっている。東南アジアの田舎の地域では建物は外部に開き、内部にいても外部とのつながりが非常によく感じられる。こちらから閉じて行く一方では社会は全く良い方向に向かって行かないのではないか。
現代では、考えられないような残虐な事件が起きたり、自殺者が増加する世の中になり、人々はますます家の囲いを強固にするようになる。しかし、さらに家を共同体に閉じるればますます残虐な事件は起こり、自殺者は増加して行く一方だと思う。なぜならば、これらの事態は、共同体意識がなく、世界が自分の世界のみで完結し、増幅し、現実にコミュニティに属さないで電脳世界に侵されたりして他者との接点を持たないため、自己と世界を関係づけることができないこと等が原因であると思うからだ。攻撃に対して防衛し続けるのみでは何も根本的な解決はやってこないような気がしてならない。人は競って都市の土地を占有し合い、所狭しとその場所にできるだけ最大限の空間を設けようと精を出す。
現代には利益を生み出すタワーよりも世界各地に古代から点在する象徴的な、祈りを天に送り出すタワーの方が必要であるとさえ思えてくる。
また、この論文は建築学のみの視点から画一的に書かれていない。現代都市のかかえる問題には様々な要因が複雑に重なっており、それを画一な視点で論ずることは危険であると思うからである。そこには一市井人として総合的な人生を生きる複合的で享楽的な視点がある。
これからの建築を考える上で最も重要なのは無名性、風土性そのものを良しとするのではなく、自己の想像力を含めた全感覚でその中の生活の在り方を探知し、そこで生の充実にのみ価値を認めることであろう。
- ロバート・キャパ 決定版
- 2004
ファイドン
リチャード・ウェラン, ロバート・キャパ
2007/03『崩れ落ちる兵士』で有名なロバートキャパ
あの作品には相当本人も頭を悩ませたそう。
まさに写真に命をかけた男人間の本質を浮き彫りにし、感情をも写しているかのような彼の写真。
友の死、家族の死、戦時中のささやかな笑み。
憎 悲 幸
事実を純粋に写し取る。
人間の愚かな営みもそのまま直視し、受け入れた上で新たな光へと向かう力をかんじました。
彼の生涯もまた、地雷を踏んだらサヨウナラ でした。
実用書
- 裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記
- 2007
講談社
山口 絵理子モチベーションがあがらないとき、
自分で自分自身をぬるいと思うとき
無意識に守りに入っているような気がするとき
いつもこの本を読み返す内容は2時間ほどあれば十分に読めてしまうほどの平易さで、読み物として特に推敲されているわけではない。起業のノウハウや、国際協力に対する新しい視点からの記述があるわけでももない。
何一つ特別なことは書いてないが、だからこそ伝わるものがあるのかもしれない。利益至上主義の下に成立する社会構造の中で慣例となってしまっているもはやどうしようもない現実から決して目をそらすことなく
正面から全力でまっすぐに向き合って貫き通す力。いつでもその枠から飛び出せる状況にいるのに
何生ぬるいことやってるんだと
頬を打たれる気がする自ら体現することで人を変える影響力。
そこにあるまっすぐな想い。
その伝播するモチベーションは
読者の人生の密度を変えうる力をもつ。死ぬ気でやれよ、死なないから
たった2時間でその後の一ヶ月の濃さが二倍になりうる一冊。
- 裸でも生きる2 Keep Walking私は歩き続ける
-
山口 絵理子
講談社
2009年10月1日ちょっと経営者兼デザイナーと持ち上げられすぎたのか、時間軸の進みが遅いからなのか、一冊目にあった面白さがない。
私なんか、といいながら人生哲学という単語が連続して私、私という感じに会社の経営理念がくっついた感じが繰り返されるからだろうか。ちょっとした演説みたいで少し閉口。
人生を書籍で語るのは人生が顔に刻まれた皺からにじみ出るほどに生きてからとかで十分。やはりメディアというかポピュラリティは人の見え方、そしてその人自身を大きく変え得る。
アノニマスだからこそ取れる行動なり言動がある。
その美しさを取れば至って普通の人。
考えにも革新性はない。もちろん経営者として尊敬するし
その人生哲学も素晴らしい
してきたこともしていることも素晴らしい。
何度転んでも何度でも挑戦しようとする姿勢も素晴らしいただ、語る言葉や露出媒体はしっかり選ばないと。
アノニマスでありつづけるために。地位や名声にぶらさがってないで
いつだって捨てる覚悟を。その覚悟は口で語るものじゃない。
背中で語るものだろう。
一生懸命やってますという過程を見るのは一部でいい。
それを見たいのはお子様の授業参観ぐらいなものだ。 - 強く生きる言葉
- 2003
イーストプレス
岡本 太郎, 岡本 敏子
2007/03小学生のときからショーペンハウアーとか読んでた太郎さんの言葉だから非常に単純だけど非常に重みがある。純粋にそのコトバを信じて突き進めばいいのかなぁという妙な説得力というか実感がある。
何かやる時にはある程度、この社会における自らの利益を考える。でもそうじゃなくていい。
自分を大切にせず、自分を破る。自らを覆す。死と対決し、生のチカラを燃やす。そして今というこの瞬間を生きる。
彼の純粋で血の煮えたぎるような情熱、パワーは圧倒されるばかり。
もしこの世にご存命ならば一番会いたい人かもしれない。積み重ねたものを積み減らしていこう。そして人間として、純粋であろう。己自身に挑み、ありのままの自分で自分の歌を歌おう。
これから生きる道を進む自信をさらに与えてくれた
やっぱり心の中ではいつも彼が叫んでいるようです。
小説
- 日本浄土
-
藤原 新也
東京書籍
2008 年7月29日金、情報、近代技術、中央集権、大量消費、大量生産。
大きな流れの上に成り立つ世の中では
力を持った大きなものにまかれ画一化していくしかない。それに対する初老のどこかノスタルジアに満ちたささやかな抵抗。
依然としてどこかに少しでも残る原風景、桃源郷を探しながらの日本中の小さな物語。
それは今やどうでもいい老人の戯言程度のものだけれどもそこに真に大事にすべきものが垣間見える。いま地方ではもう土地とふれあうことをあきらめてしまったかのようにあらゆる人が自動車に乗って往来し、無駄な工事はせっせと自然と人間のつながりを破壊、分断する。
平成の無味無臭の風、匂いは情報技術により全国各地の地方まで蔓延する。エコという一種の流行にも似た現象は今私たちが暮らしている二十一世紀の時間に追われる世界の上に成り立っているが、人間の暮らしは実はもともとそんな次元にはなく、消費行動が少なく、したがって生産性も低い世の中では、衣食中足りれば人は遊んでいるかのような悠長な時間の中に身を置くことが出来たのである。
場や事柄とは弔われたものたちの記憶によって、時に目の前に存在しているもの以上により強く匂い立つ。わけがわからないけど、なんとなく。ただ、手を合わせるだけでいい。何かを手に入れた瞬間に他の何かを失う。それはおそらく何人の人生にもしばしば起こりうる小さな宿命。
そのままでいいから。そんなじめっとした小さな物語を探すべし藤原新也はいまにも崩れそうなどこかの安宿の2階のテラスでストリートのかしましい往来をながめながら読みたいが、分厚いのが珠に傷だ。