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2017-06

On The End of June

Biblioteca del Instituto de Artes Gráficas de Oaxaca
海外でノマドワーキングを実践してみて約4ヶ月がたった。アメリカから南下してきて今はグアテマラにいる。この国はコーヒーがうまく、自然が多い。未だに伝統的暮らしを守っている少数民族も多く、彼らの彩り豊かな服装は街中によく溶け込んでいる。実はこのブログには今どこにいて、何を感じているといった個人的なことを書くつもりはなかった。というのも、正直に言ってしまうのならば、いま、cottでローカルな暮らしを実践し、ローカルでデザインを生み出していくという旗を掲げている中で、海外ノマドを長期で行うということは田んぼや消防団などの田舎の務めを長期で放置することになるため、無責任だし、わがままだと思う人もいるだろう。さらには日本社会の輪から仲間はずれにされてしまうのではないだろうか、といった恐れがあった。しかし、4ヶ月海外で暮らし、様々な人の考え方、生き方を目にしながら暮らしてきたいま、その種の心配や後ろめたさはいつの間にかどこかに去っており、近況について書いてみようと思った次第だ。

さて、まずはこのノマドワーキングの始まりから書いた方が良いだろうか。私は建築デザインの分野出身のため、死ぬまでに見たい建築がたくさんある。建築は3次元のものであり、2次元の本などでは良さを十分に理解できない上、その場所に建つものなので、amazonで取り寄せるわけにもいかない。実際、多くの建築家たちも世界の名建築へ足を運んでいる。通常の日本社会に属しているのであれば、それを見るために頑張って1週間の休みを取り、はるばるその街を訪れるということを繰り返すか、思い切って仕事を辞め、貯めた貯金を切り崩しながら旅行するのが普通だ。飛行機で何度も大移動を繰り返すにも関わらず、ほんの近場しか訪れられないのは、非効率であるし、せっかく訪れるのであればできればその場所のアニマに触れ、その土地の文脈まで深く理解したいので、前者はできれば選択したくない。(デザインにおいて文脈というのはそれと同じぐらい、あるいはそれ以上に重要だ。)となると後者であるが、皆が家庭を背負いはじめる年齢で仕事を辞めてまたスタートしなおすのもなかなか勇気のいる選択だ。

だが、よく考えると第三の選択肢が自分にはあった。いつものように仕事をしながら移動すれば良い。独立して約10年経ち、きちんと色調整がかけられたモニターで編集し、プリンタで原寸出力しなくてもラフの段階で仕上がりがある程度予想できるようになっていた。打ち合わせは優秀な外注さんたちにも頼めるし、信頼できる業者さん、田んぼを任せられる近所の方々、そして理解してくださるお客さんなどたくさんの人たちに恵まれていた。テクノロジーの進歩により、ノマドワーカーなどという言葉が使われはじめ、事務所にいること、あるいは事務所そのものの必要性がなくなってきたなどと言われはじめて久しいが、どちらかと言えば私はそれを信用しておらず、紙を扱う以上、資料や設備の整った事務所がいい仕事をするための一番の作業環境であると思っていた。例えば田舎の川のせせらぎを聞きながらパソコンひとつでどこでも働くということは地方での仕事を勧めるための広告のようなもので、実際は効率が悪いしありえないことだと思っていた。だが、それを試さずにそう断言できるほどの理由もなかった。むしろいつも自分の好みの音楽以外が流れてくる状況、自分の手に馴染んだ道具以外を使ってみたりすることなど、自分のソースにないものとの出会いを想像してみるととても楽しい。第三の選択肢が浮上してから、「思い切って出てみると、人も時代も味方してくれるに違いない」と思うようになるまでそれほど時間はかからなかった。そんなこんなで10年という節目、さらにいい仕事をすべく、建築やグラフィックも含めたデザインを見るために、生やしていた根っこを土から切り離し、えいやっと出てきた。腰を落ち着けかけた場所の居心地の良さに甘んじることなく、引き続き新しい場所に向かいたい。

今回の渡航でのノマドワークの実践を通して、10年余り前では考えられなかったほどの時代の進歩を体感することができたのは本当に大きな収穫だった。外注先やクライアントに迷惑をかけそうになればすぐに帰国する予定だったが、今のところ大きな問題はない。手元の携帯電話は何も設定しなくてもそのまま世界中からつながるし、事務所の電話も転送されてくる。もう少しゆっくり追いかけて異国気分を味あわせてくれと思うほどに電波はグアテマラの湖畔の小さな村まで追いかけてきて瞬時にクリアにつながる。WiFiはそんな村にも張り巡らされ、編集したデータや撮影した写真はこまめに複数の外付けHDDにバックアップしなくても、ネット上に即バックアップされ、日本の事務所と作業環境が瞬時に同期される。実際にパソコンを盗まれたが、すぐに新しい端末を購入し、環境移行することだってできた。忙しい時期は仕事場にしているホテルや図書館等に缶詰になることもあるのだが、食事のための外出さえも多くのインスピレーションを得られるリフレッシュタイムとなるし、一箇所に滞在していると顔見知りが増え、自分の家が増えたような気分になり、繁忙期すら楽しめるのはお気に入りだ。たくさんの人が温かい心で迎えてくれる。

また、新しい時代の働き方について多くの人が考え始めていることを日本で暮らしていると感じているが、世界でも同じように考え、同じような働き方を実践している人とも多く出会えた。昨日出会ったアメリカ人のSarahも、旅行をし、更新するブログでお金を稼いでいるという。(具体的にどのぐらいかは聞いていないが。)会ってまもなく、彼女は「人生についての話をしよう。あなたの人生の中で何がしたいの」と切り出した。とっさに適切な言葉が見つからず、私は「いきなり抽象的なことを言われてもちょっと答えに詰まってしまうなぁ」と返した。その種のことはこれまで何度も考えて答えを出してきたのに、アンパンマンの歌を小さな頃から何度も唱えてきた(意味不明な方は歌詞を調べてみてください。)のに、今、すぐに答えられない自分がいたのは自分でも少し意外だった。自身の価値を見出すために強い言葉やコンセプトを表現することを必要としていた若い頃の自分とは違い、歳を重ね、人との出会いを重ねることでそれが必要なくなったのだろうと少し嬉しく思った。強い刀は自分を守ることもできるが、同時にそれは武器でもあるのだ。
すると彼女は自分の人生観を話し始めた。ざっくり話を要約すると、「アメリカ人も日本人も働きすぎて、本当に大事にすべきことを見失っている」と言っていた。そういう議論が行き過ぎると「いつでもどこでも、働きたいときに働いたらええやん」といった考えになるが、仕事は人から頼まれたことを約束通りにやることなのだから当たり前に時間制限があって、求められる結果があると思うので、完全に同意はできず、その時は自分より少し若者の意見をただうんうんと聞いていた。だが、場所を限定せず風のように流れながら自分の生き方を手にしようとしている、あるいは手にしている人たちと接することで、少し肩の力が抜けていったような気がしているのは確かに感じている。

話が少しそれてしまったが、要するに、元気にグアテマラでノマドワークをしているということだ。いつも通りに働きながらも、毎日違うものを見て、毎日違うものを食べて、たくさんの人と話している。今週はよく働いた。少し忙しくなりそうな次週にも備え、この週末は、富士山より高い山でリフレッシュをしてくる予定だ。なお、同じような働き方を望む方のために、自分の場合の具体的なメモを記しているので、必要な方はこのブログ上のTips for Digital Nomadを見ていただければと思う。また、先々月のブログでもお知らせしたが、特設サイトにて異国にいる間見たデザインを毎日アップしているので気が向けば見ていただきたい。(ただし、サイトが重いです。時間ができればデバッグ予定。また、パソコンが盗まれてしまった間は記事が抜けているのが、それもそのうち補完予定。)
tocotocoWEB
Museo Internacional del Barroco / Toyo Ito & Associates
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