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2011-06

白インキ

近頃は、はまるはまる。白インキ。
白は何にでも良く合うのだが、特に黒い紙や少し赤みがかったクラフト紙と相性が良い。

白と言えば、普通は紙が白い前提で普通は表現されますが、色紙にもともと付いた色を最大限に生かしたいときなどはは白いインクを使います。普通のプリンタで塗らずに表現していた箇所に逆に塗ります。

地色に白を引いても白に紙の質感が重なってまたおもしろい。
(質感を出したくない時はオペークインキと呼ばれる種類のものや、二度刷りなどで対応しますが、せっかくなので特別な意図のない限りは少し透けるインキで紙を生かして楽しんでみたいものです。)

どれーにしよう。
base botany ポストカード
base botany ポストカード
縦長のものは1色刷り。横長のものは2色刷り。

左下の、白地にピンクと茶色地にピンクの色は実は同じ色で、目の錯覚なのです。(本当はピンクでなくて、蛍光オレンジのインキを使う予定ですが。ひとまずピンクでプレビュー。)

これを明度対比といいます。どうみたって白地にピンクの方が沈んで見えますよね。これはどんなに修行を積まれた方でも感覚的にはそう見えます。人間の目ほど信用できないものはありません。
周りが明るいと、自分が暗く見える。まわりが暗いと自分が明るく見える。
人間の感覚は常に周りと比べて自分を認識しているのです。

余談ですが、相対性の話。これは知覚の話でなくてもきっとそうだと思います。

みんなが一生懸命徹夜して学校に泊まり込んで制作に勤しんでいるデザイン系の大学では寝る間も惜しんで一生懸命にやっていた。しかし卒業してアルバイト生活になると、やろうと思ってもなかなか腰が重い。毎日明日でいいやと先延ばしにしてしまう。どんな環境でも芯を持っていたいものですが、実際はなかなか難しかったりする。そんなふうにひとはまわりとの関係性の中で生かされる相対的な生き物なのだから、これをやろうというとき、周りの環境をつくっていくのもひとつかもしれませんね。cottで言うならば、どんなに田舎でも、研究職的にデザインを追求していく世界に身を置くための環境整備を少しずつ。

また、図を白で描くことにはそれ以外にも意味があるような気がしています。
普段何も感じない白について意識する。
ということは一般的に我々が使う白い紙に黒いペンで絵を描いているとき、黒い絵を書いていると同時に黒いペンを使って白い紙の白で絵を書いていることをも意識してみる。そんな意識に訴える効果が白インキにあるのではと思います。

白い紙ベースのレイアウトで白の伝える意味をより考える。
そんな美的感覚向上を図るという意味でも白インキは素敵なもの。白で印刷できる廉価なプリンタが欲しいところ。

たとえば実家暮らしから一人暮らしになったときに母のありがたさを感じるのと同じように、普段意識しない事象について意識してみること。
そんな、色と人間のはなし。
18,9のときにとったカラーコーディネーター1級が、ここにきてじわじわやくにたちはじめている。

安福

愚行四年目の所見

近頃はいろんなところに足を運びながら町内のヒアリングをしたりしながら作戦を練っている。地域に対して解法は地域ごとにゆっくりと導かれて行くもので、本当に地道な作業だ。

田舎に舞い戻ってデザインをはじめるという愚行

先日、ランドスケープアーキテクトの山崎亮氏が情熱大陸に取り上げられていたのも記憶に新しいが、地域に向けられる目はこれからますます大きくなってくるだろう。(自己紹介レベルで彼の魅力が伝わり切ってない放送には少し残念だったが、自分の周りでは好評だったのできっと日本中に大きな影響を与えたに違いないと思う。)きっと「私も田舎に帰って…」という若者たちもいるだろ。大変歓迎すべき流れであるが、誤解を恐れず言ってしまえば、20代30代そこらの若者がたとえば田舎に帰ってデザインで地域を盛り上げるなんてことは基本的には愚行だと思っている。専門家として派遣されるということと、そこに住んでということでは意味が違ってくるように感じている。まちの皆は、面白がって話を聞いてくれたり評価をしてくれるのだが、農村では新しい価値を提示して意味を理解してもらうまでに時間がかかるし手間もかかる。

汗をかいて人に会いに行かなければ批判ばかり出回る。「本当にいいものをいいと言いたいだけだから農産物のブランディングをやらせてくれ」といえば気違いだと思われる。ブランディングはどういうものなのか分からないので実際にそれをやった後、効果が目に見えなければ「怪しい商売してるあの家の息子」との視点は拭えない。都会で出回る農産物がどんなものか目にする機会もないので自分たちの育てるものがいいと本気で思っている人が実は少なかったりするかもしれない。失敗ができない。だから実力、そしてコミュニケーション能力を要する。なんだか理不尽な気もするがそこまで背負わなければならないと言っても言い過ぎではないケースも多いと思う。
そんじょそこらの覚悟ではそうすべきでないだろう。私の2倍、いや、3倍近くにもなる大先輩の方々が一生懸命村のことを考えてされている。

だから残念ながら今のところcottとしての多くのクライアントワークは田舎のものではない。もちろん少しずつそっちにシフトしていければとは思い続けているが、実際問題としてあまり需要がないので難しい。某携帯電話ショップである契約をつければ一緒にもらえるPCやPSPみたいなもので、あればいいけどなくてもいい。だからなかなか仕事として成立しない。
もう一歩踏み込んだ何らかのシステムを描かなければこの状況は10年やそこらで大きく変えることは難しい。それを描く自信はあるが、それを押し切る自信は全くない。農村は基本的に自己主張するところではないので、生活者が提案することと、外部の人間が提案することは全く性質が違う。失敗すれば、一族が村八分である。

だが本当に地域の価値や人、文化が代謝して行くためには生活者からの提案をベースとすべきだとの思いもある。だから少しずつ背中を押してやれるような仕掛けをさりげなく提案する。まちづくりは開発ではないのでこちらの都合で働きかけまくることではない。待つことも大事。待つづくり。

村の幸せとはなんだろう

携帯電話やインターネットなど、急激な情報化の影響を受けてか、農村地域の若者の視点も極めて現代的であるところも多いだろう。そのような場所における若者の田舎で幸せは、村の上の世代の幸せに一致しないところも多いのではないか。村にあまり関わる場所のない若者は基本的に意見を言う立場にない。だから出て行く。村の上の世代が村を回すのは田舎の基本原理として続いて来たもので、若者は本来田舎では村作りに対して頭を出さないし、出せないので、そもそも意見が通らない。それを通すことは実はタブーに触れることなのかもしれない。
「どうしたもんか。この溝は埋めるべきなのかどうなのだろうか。」としばらく頭を抱えた時期もあったが、村を家族の集合というレベルに落として考えてみれば、孫や子の幸せ=村の上の世代が幸せというのは間違いない。だから少しは埋めてもいいはずだ。

今思えば小さい頃、本当に住みやすく感じていた。次の子にも当たり前にそれを感じさせてやりたい。その想いひとつでまだもう少し、いけるのか。今年度は何度もそういった自問自答を繰り返すことになりそうだ。個人の想いが入るのでここに書くべきか迷ったが、以上が正直なところ。少し遅くなったが、愚行四年目に入っての所見である。

それでもぜひUターンして正面切って、村を興したい愚弄者は、心から歓迎する。心豊かな生活ができる農村であり続けるために。

野の花Cafe
↑すこしセンスが上の年代ではあるが、町内で一番おしゃれな野の花Cafe。倉をどう活用するか、楽しみ。
蛍
↑事務所で夜な夜な作戦会議をしていたら飛んできた蛍。そういえばもうそんな季節。田植えもはじまっています。

追記 11/06/06 ——————————————

経験論的なここだけの話

先日、Uターンして村を興そうと思うなら骨をうずめるつもりで戻ってきて本気でやれと書いた。真面目な話をすればそうだが、さらにリアルな本音の所を恐れず書いてしまおうと思う。

田舎の男たちのコミュニケーションの基盤は昔から酒、女、たばこ。それらの周りに村の男たちが群がる。農村地域の魂である米から生まれる神様のしずくである酒に、新たな時代を託すべき子供を産む聖なる女。権威の象徴であるたばこに火をつけ狼煙をあげる。共通話題と言えばそういったものたちや近所の噂話、今年の天気、田んぼの水、いのしし、マムシの話など。自然界のご機嫌について語りながら嗜好が全く違う村人たちをまとめあげる。

最近は表面的にきれいなものばかりを見ようとする現代のシステムによる大きな規制の波が村にもやってきている。おかげで、そんな農村の魂を隠してしまったかのようにやさしい親父が多い。親父の求心力が弱くなって来ているせいか、若者は家を出て行くし変に真面目すぎてぱっとしない。田舎で何かしでかしてやろうというこんな愚弄者も出てくる。そしてまだそれを怪訝そうに見つめ影で叩く元気のある親父たちもいることに感謝している自分もいるかもしれない。

私たちが中学生の頃ぐらい。そう、2000年に入るか入らないかぐらいまでは原付を改造して大きな音を立てながら猛スピードで暗い田舎道を派手に照らして走るやんちゃな坊主がたくさんいたのだが、近頃はうるさい音といえば夜中に走る大型トラックの音ぐらいなものだ。親父に力があればあるほど反発するエネルギーも湧くだろう。でも結局は最大の敵である親父にはかなわないことを知っているのでそのうち丸くなる。息子がグレたら親父もどうこうせずにどっしり構えていればいい。治安がどうだという話は別にして、若い頃はそれぐらいやんちゃでもいいと思うのだが。

まぁ神様とか現代のシステムへの危惧の話をすれば胡散臭いしそんな昔話はどうでもいいのだが、要するに農村を回し続けて来た原理は高尚ところと繋がってはいれども、高尚な所にはないということだ。だから本来の農村として限界集落を救うのであれば、それは実は高尚な理論ではないと思う。だから最近流行りの「コミュニティ」を「デザイン」と言ってしまうのは都市計画的なレベルの話で農村においてはまだ少し疑問が残る。

自然の恵みに感謝し、身近な素材をうまく利用し、様々な所に宿る神々についてを話題にしながら、身近な人と日々を営む。
自然という大きな関係性の中に身を置き、今日の米の中にある真理を見つめる。
文字を重ねてしまえば安っぽくなってしまうが、これぞ、農村地域の伝承され続けてきた心なのだ。

酒女タバコの話に戻るが、まちづくりにも煩悩が必要だ。村に地デジよりもデザインよりもエコよりもエロを!

内の人が農村本来のコミュニティを内から盛り上げるのならそうではないか。そんな提案ができるのはUターン者、または地元育ちであるからこそ。親父たちが真面目に徹するのなら僕らは楽しくやる。まちとむらもつなぐ。Iターン者がのびのびやれるようになればいい。経験論的であほ丸出しの下衆な話であるが、あながち間違ってはいないと思っている。高尚な世界と、俗世の狭間で一歩ずつ。

安福

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