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Treehouse Blog of cott

FAX番号を変更しました

新設のFAX番号は以下の通りです。

(078) 330-1023

今回導入するのはインターネットを利用したファックスで、
事務所へ戻らずとも確認できるようになり、確認にお待たせする時間が減ります。
本格的に使用するかは1,2年使って検討しながらの試験導入です。
これまでのファックス回線もそのまま置いていますが、
よりスムーズに仕事をすすめ、よりよいサービスを提供するためですので、
FAXはこちらの番号にご変更頂き、ご協力いただければ幸いです。

11月

スタジオcott
11月は久々のスタジオcottをしましたよ!
(写真は撮影セットを片付ける前に遊んでいる様子)

やさしい風景

隣町やその隣町など、地元の学校や公共交通機関、公共施設などのお仕事も。
のぼりやダイヤ、スタンプカード、情報誌など、ツール一式を担当。
のぼりはなんでもない田舎のバス停に添えられている。
なんでもないけれども保護のためなのか、景観のためなのか、
屋根を支える単管の鉄柱に竹が巻かれる工夫がされていて、やさしくて素敵。
そんなやさしい風景の中に自分たちの仕事がそっと佇んでいるのが嬉しい。
八多町のバス停の風景
と、稲刈りが終わった勢いに任せて月末かけこみ更新!

2016稲刈り休み

以下の通りお休みをいただきます。
10月18日(火)〜21(金)
稲刈り機からの風景
かつての学校がそうであったように今秋から農繁期休暇を実施します。
自然界のご機嫌により農作業の段取りが変わるため、「毎年○月の第○週は休業」というような言い方はできないのですが、営業日(平日)に休業をいただく際にはここで随時お知らせします。臨時休業をいただくおそれのある時期は以下の通りです。

  • 5月下旬頃(小粒米の田植え)
  • 6月中旬頃(山田錦の田植え)
  • 9月下旬頃(小粒米の稲刈り)
  • 10月中旬頃(山田錦の稲刈り)

ご理解の程、よろしくおねがい致します。

Our Japanese Festival

太鼓を差し上げる
日曜日は場馴らしと言って、祭りのリハーサルみたいなものに参加。

4年に1度、当番が回ってくるのですが、今年は私もかつぎます。10/2の午後1時から淡河八幡宮を出て、ふとん太鼓を先頭に、神輿や天狗、村人大勢がのどかな農村風景の中を練り歩きます。今年は練り歩く周辺は稲刈りがほとんどされておらず、彼岸花が綺麗に咲いており、いつもよりのどかな雰囲気かもしれません。どちらかと言えば村人による村人のための素朴な祭りですが、長い間大切にされ続けてきた祭りです。祖父の太鼓襦袢を着て楽しんでこようと思います。
もっと豪華な播州の祭りを見られたい方はその次週の土日、隣町の三木市、大宮八幡宮へぜひ。(日曜は淡河町の歳田神社でも祭りです。)

Less is More

夜はめっきり涼しくなった。事務所にいるときはいつも音楽かラジオを流しているが、この季節の夜はプレーヤーをOFFにして虫の声を肴に、思索にふけるのにちょうどよい。

近頃は仕事も休む間もなくやってきたり、休みの日には地域の方と一緒に農業をしたり、地域活動をしたり。ローカルでデザインを本業にした暮らしがすっかり落ち着いてきた。作ったものが形になって、それが世の中に出回って、例えば何も知らない友人がそれをSNSでアップしているのを見たりする時なんかはとても嬉しい。考えをぶつけ合いサポートしあえる方もいるし、いつも仕事を頼んで下さる方もいて、本当ありがたい。仕事の道具が増え、仕事の環境も充実してきている。様々な方に囲まれ、やりがいを感じながら日々、東奔西走している。(メディアに紹介してもらう機会に恵まれたものの、きちんと情報発信出来ていないのは少し心苦しく、改善して行こうという気持ちではいる。)

一方で、自分の場所が増えるにしたがって、自分の思った事が実現する環境が整うにしたがって、不自由になって行く様な感覚があった。その感覚はきっとデザイン以外の仕事をはじめていたとしてもそうだと思う。その正体にずっともやもやしていたのだが、近頃はそれをなんとなく言葉にできそうだと思っていて、猫も寝静まった夜に何度も書き換えながら筆を進めてみた。

そのもやもやの正体のひとつは自分がフォーカスされることに対するためらいだと思う。
まず仕事は役割分担で、デザインは数多くある仕事のうちのひとつだ。誰かが誰かに何かを頼みたいから仕事は存在しており、デザインはもちろんのこと、どんな仕事も基本的にクライアントワークだ。良い仕事をすれば感謝をしてもらえるし、だれかの力になれるのは人として最高に嬉しいこと。仕事をするとお金が手に入る。そのお金で生活を豊かにする。
だからどんな仕事も貴重で、それぞれの世界でだれもが一生懸命活躍している。
ただ、デザインをローカルで、暮らしを自分らしく、というのは今どき取りあげやすい。それだけで自分だけがフォーカスされてしまう状況に対するためらいのような気持ちがある。
仕事で自身を認めてもらっている事に対する感謝の気持ちがありつつも、もっと魅力ある人たちはすぐそばにいるのにな、と思う。
さらに言えば、だれもが知っているとおり、仕事が生活の全てではない。仕事ができるのは良いことだけれど、大半の仕事はきちんと学んで、現場で訓練を重ねればきっと誰にでもできるようになる。(実際はそんなにうまくいかなかったりするが、とりあえず究極の話として。)仕事の評価は人としての魅力と相関はすることもあるかもしれないが、イコールにはなり得ない。
一緒にいておもしろかったり素敵だなと思う人は教科書に書いてある事をたくさん覚えている人ではなくて、ただ単によく笑うひとだったり、ユニークなことを言う人だったりする。いわゆる田舎のじいちゃんばあちゃんに魅力を感じるのは、そこにあるのが正しさや、真面目さや、こうではなくてはいけないというルールではなく、人間らしさであり、そこから生まれる物語の中で生きているからなのだろう。(そのようなことを暮しの手帖の元編集長が言っていた。)ローカルで暮らせば暮らす程、そういった人が人として持っている魅力に気がつくのだ。
もちろんオファーは極力断らず、仕事は誰に見せても恥ずかしくないものをと思って真面目にするが、それよりも人の輪の中でよく笑っていたい。

もうひとつは荷物を持つことによる不自由さだろう。
うちの事務所は一流のデザイン事務所と比べても遜色がないほどに仕事道具や本が多い。いや、それはさすがに言い過ぎかもしれないが、地方であるという劣等感のような感覚から、せめて道具や情報は一流を揃えておくべきと思い、この8年半、とにかくいいものを買いそろえてきた。できる仕事の質にもつながってきたのでそれは必要な事だったのだろうが、きっと集めて所有する事で自分の世界を広げている気にもなれたのだと思う。旅行の荷物もずっと重い派で、だいたいどこに出かけるときも進行中の仕事の資料一式を持ち、カメラも仕事用に購入した大きなものを持ってばしばしシャッターを切っていた。だけどそのせいで人の話がうわのそらの時もあるかもしれない。高価なカメラの紛失盗難破損などを恐れるあまり、所作に細心の注意を払うが、常に不安がつきまとう。神経もすり減るし、体も疲れる。きっとその類のデメリットが先述のなんとなく感じていた不自由な感覚だったのだ。
なにかを持つと維持が必要となり、こうしなくてはいけないというルールが生まれる。ルールは秩序を生み出し、秩序は安心を生むが、同時に閉塞感も生み、意識していないとルールに縛られることで人としての魅力や生きていることの喜びが見えなくなってしまうことすらあるだろう。

そういう感覚を繰り返すうちに気付けば荷物が減る様になった。独立当所にあちこちで配っていた名刺は仕事以外で渡すことがほとんどないし、大きなカメラやレンズは撮影の仕事以外では持ち出さない。自分を大きく見せる必要もなくなったのかもしれないし、多くの人を魅力的に思い、話をするよりも聞いている方がおもしろいと思うようになったのかもしれない。そんな近頃はコンデジとガラケーとメモとペンをポケットに入れ、手ぶらでうろうろしていることも多い。なるべく荷物を軽くして、身ひとつであちこち渡り歩く。資料を頭の中に叩き込みこの手だけでスケッチしていると、ものを作っている感じがしてとてもしっくりきている。

隠岐の西ノ島の風景
仕事は真面目に。暮らしはユーモラスに。この身ひとつで自分らしく、たくさん旅をして、にこにこしていようと思います。
yasufuku

書籍掲載のお知らせ

農す神戸とTURNS
TURNS8月号農す神戸に安福が登場しています。
よかったら見てやってください。
な、8月でした。

Visitors

cott事務所の猫

どこからともなくやってきた子猫たちの手を借りている、7月。
猫はステルナ!

Beautiful Japanese Scene

西原村の山間の集落の風景
熊本に行って数日間その日常の中にお邪魔してきた。
失いたくない美しい風景と暮らしそして、それをつくる人にたくさん出会うことができた。
また会いに行こうと思う。

A Walk in The Dark

ライブの様子
撮影で高校生の終わり以来の某ライブハウスへ行ってきた。
当時はすごく高く感じていたステージは思いの外低くて、
当時すごくまぶしいと思っていた舞台照明は案外質素で、
当時の光景がありありと浮かんでくるかなと思いきや、そうでもなくて。
きっと、わけもわからず、とにかく歩いていたのだろう。

漆黒の闇の中をちいさな灯りで足下だけを照らして歩くのはとても怖い。
かといってまわりを照らしても光がうっすらとしてしまうし、
足下に転がっている石につまずいてしまったりしてうまく歩けない。

ただ、とにかく歩いてきたらたくさんのものと出会いながら、
なんだかんだきちんと辿り着いて来れたから、暗くてもきっと大丈夫。
そんなふうに出会ったものに思いを馳せていたら
真っ暗な闇に光が差し込んでくるのだ。

さて、今月も相変わらずの滑り込み更新となったが、
第一弾の田植えも終わり、蛍も舞い始めた。

6/14(火)〜16(木)は臨時休業をさせていただきます。
少しだけですが、熊本へ。

Sword of Justice

月1更新のノルマを達成すべく、滑り込みの更新。いつの間にか4月は終わり、山道を走ると藤の紫の花がきれいに咲く様になってきた。明日からは米の苗づくり、所謂種まきだ。
4月の大きな出来事と言えば、多くの方が熊本の震災だと答えるだろう。もう2週間が経ったがまだまだそれは毎日テレビや新聞のメイントピックで、SNSでは震災関連でアクションを起こされている素晴らしい方々の情報が次々と流れてくる。沢山の人が、早々に支援に乗り出しており、本当に日本は素晴らしい国だと思った。

一方で、その流れてくる情報に疲れている人もいるのではないだろうか。アクションを起こしている方の情報を目にした時、自分が何も動かず普通に暮らしてしまっていることに、どこか罪悪のような気持ちを感じてしまうこともあるだろう。だが今、自分がアクションを起こせていなかったり、心の底で自分には関係ないと思っても、罪悪感にかられる必要はないし、何人もそれを責めることはできない。そんなふうに心のどこかに罪悪を抱えてしまっている人がもしいるのならば、同じ国の人が苦しんでいるのに支援活動をしている自分に協力しないなんてありえない、と思う人がもしいるのならば、さまざまな存在を肯定することを進言してみたい。震災に対してアクションを起こせなくても、一家の大黒柱として、生みの親として、自分の手の届く人たちを懸命に守り続けているのも素晴らしいことに違いない。その幸せは、安心して守っていていい。自分や家族の暮らしを守りながら、他のものも守りたいと思うのなら、そのエリアを自然に増やして行けば良い。

困っている人を見たら、助けるべきだ、というのは正しいことだ。だが、実際には震災のたびに支援をして、世界の各地で苦しむ難民、病と戦い懸命に生きる方々あるいは心臓病の赤ん坊など、皆を助けることなんていつもできる人はいないだろう。正しさは大きな物事を進めるにあたってのひとつの指針となるが、正しいことだけで世の中が回っているわけではない。毎日真面目に働きながらも、時には酔っぱらって自身を縛り付ける日常の全て忘れてはしゃぎたくなったりするように、人は大小正しくないことも抱えて生きている。情報化が進んだ資本主義社会の中、正しさを貫き通し続けられる人はきっといない。宝くじで1億円当たったらそのままそれらを世界中の恵まれない境遇の方々へ寄付することができる人がいるだろうか。

だから、相手に異なる意見を述べることはあっても、その正しさを強要してはならないように思う。そうする時、相手の意見を否定するのみならず、いつの間にか人格までもを否定しているといったことが起きる。正しいものは時に人を責め立て、正しいと正しいがぶつかると戦争だって起こるのだ。特に、誰も悪くないことが原因で人格を否定し合っているのを見るのは本当にむず痒い。

相手の正しさを認める事ができなくても良いが、相手も自分も肯定し、存在を認めること。
天災など、誰のせいでもないことが起こった時こそ、善意で動く方々同士、傷つけ合わないために、意識していたいなと思う。
そしてなるべく正しさという剣は鞘に納めたままいたいな、と桜吹雪の中無邪気に遊ぶ子どもたちの笑顔を見て思った4月だった。
桜並木とこどもたち

What we can do for Local Identities

普段農村で活動しているから、よっぽど自分の街が好きなのだろうと思われているかもしれないが、好きなのは自分のまちばかりでない。日本、あるいは世界のいろんなところを行脚し、地方都市独自の人や文化に触れるのが好きで、学生の頃から折りをみてさまざまなまちへ出掛ける。

この2月3月も西へ東へとうろうろしていたのだが、近年、地方に行って、美しいなと思うような光景は少なくなって来た。その中でグラフィックデザイン業界の人間として特に目に余ると感じるものが、看板の大きさやまぶしさである。(3年前、訪中の際にもそのことは書いたが)日本の地方でも看板は無駄にでかい。その理由の1つとして車での行動が基本だという点が考えられるだろう。車はスピードが速く、店に入ってもらうためには看板が十分遠くから認知でき、営業中であることを伝えなければならないため、規制にひっかからない範囲で看板はでかければでかいほど良いと思われているかもしれない。特に地方のチェーン店は本当、遠慮がない。

看板のデザインはグラフィックデザイナーたちの職能のひとつであり、看板を立てたい依頼主の依頼に基づいて主にその表面をしつらえる。すでに形やサイズが決まっていて、その中に絵を入れてほしいとの依頼も多い。その際にはクライアントはその絵だけを望んでいるため、その形やサイズに対して提案することは無駄な労力、あるいは失礼にあたることすらあるだろう。ただ、それでも他の選択肢を提示することを頭に入れておくことはできる。

他の選択肢というと、例えば遠くから認識できるのは店の名前でなくても良いはずだ。散髪屋であれば別に店名の大きな看板でなくとも例の赤青白のポールさえあれば良い。もしかすると、あえて小さい看板の店の方がうまそうに見えるかもしれない。カーナビ等の情報端末が進化し、巨大看板がなくとも希望に近い店に到達できる時代もそう遠くはないだろう。果たしてその大きさで良いのか、今その電飾は必要なのか。

そんな余分かもしれない提案から少しでも「まちらしい風景」について思いを巡らせてもらえれば良いなと思う。まちの風景とコミュニケーション(モノとコト)に資するためにできること、引き続き考えていきたい。
そこに暮らす人たちが自分たちのまちを誇れるように。
離島のホテルからの眺め

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