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Vitamin C

インターネットでどこからか流れてくる真偽も定かでない情報に踊らされながら、結局その情報は正しかったのかも判断する暇を与えられず次々と情報が流れて来る日常。気付けばついつい流れの早さに身を任せていて、良い歳のとり方をできているのだろうかとふと我に還る。情報はたくさん流れてくるのだが、流れて来る断片的な根拠のない情報を理解しないまま使い、結局また迷わされて近道をするつもりが遠回りになっていたり、「誤ったイメージ」を広げてしまうのが常である。
たとえば、コエンザイムキューテンだったり、メタボリックシンドロームなど、研究者の専門用語だったはずのものが、いつの間にか広がっているが、それらを正しく理解している人は普通はおらず、そこから派生する知識は生まれにくい。また、「誤ったイメージ」とは、例えばビタミンCという言葉で説明するなら、それらは実は無色透明で味もせず、 ビタミンCがたっぷり入っている気分にさせるために色や味を付けているらしいのだが、それを知っている人もごくわずかだろう。ビタミンCは柑橘類に含まれていることが多いから、人間が勝手に酸っぱいという事実と異なるイメージを持ち、それを人工的に生成するときに酸味のあるフレーバーを加えたらしい。(ただ、それも必要なこともある。世の中には思いやりの嘘も必要なときがあるだろう。)

なぜ唐突にそんな話をするのかと言うと、言いたかったのは結局デザインの話で、デザインは乱暴に「いい」と言ってしまって周囲を巻き込んでいいくるめてしまうこともできる。極端な話、ただの石ころを10万円で買わせる詐欺まがいのことだって、やり方によってはできなくはない。ただ、どんなものも「いい」と言ってしまえる立場で仕事をしている者として、曖昧な情報にはなるべく根拠を求め、嘘偽りなく、本当に良いものを、相手にわかりやすく伝わるよう、より円滑なコミュニケーションを生むデザインは常に考えていたいと思っている、という話。そもそもビタミンCを売り出す商品には引き続き酸っぱいイメージをもたせるべきかどうかという前提から、考えてみたいのだ。

なお、情報を正しく流すという当たり前の姿勢はある意味、商売の理由がどうしても大きくなってしまう都市よりも、農村である方が貫きやすい。それも、cottが農村である理由のひとつである。

淡河城跡誘導サイン
さて、情報を正しく流すと言えば、誘導サイン。
平面デザインはシンプルに、正しく、わかりやすく。

菜の花の黄色と反対の色相の青で、よく目立っている。
もちろんただ目立てばよいという訳ではないが、
設置場所周辺の色彩を調べ、誘導サインに持たせるべき最適な色を決定。
景色が茶色の冬よりも、春や夏の方がよく目立つのもポイント。
支柱はステンレス素地、ヘアライン加工仕上げで環境をうっすら反射させる。

昨今の農村のブルーと言えば、農作業でもお花見でも大活躍のブルーシート。
そこは、ブラウンシートなどになってくれないだろうか、という意見もこっそり込めて、青。

手と道具

昨年末にプリンターの記事を書いたが、それに関する続きの話。まだ使えるにも関わらず、「メーカーが対応してくれなくなったから、新しいものを買う」という経験は今どきのビジネスマンの多くが経験していることだと思うが、ものそのものの劣化よりも、社会的環境の変化を理由に捨てられるものはとても多い。たとえば携帯電話は5年もすれば誰もが買い替えるし、OSのサポートが終わったから「使えるのに使えない」大量のコンピュータの処分に困ったのも記憶に新しい。もっと言うならビルや家だってそうだが、その話も含むと長くなるので置いておいて、電子機器についてはもはや使い捨てだと言ってしまってもいいのかもしれない。

身の回りの道具類は変化し、自身でメンテナンスがしにくい道具ばかりになってきた。メンテナンス方法も含めて受け継がれていくクワや鎌などの原始的な道具は刃がちびてしまって使えなくなるまで、いいものであれば100年ぐらいは残っている。一方で、最新の電子機器等は仕組みがわかりにくく、メンテナンスは業者任せ。調子が悪くなって、実はほんのちょっとのことで直ることだったとしても、より性能の良い新しいものを買う方が安く済んだりするからすぐに捨てられる。道具はメンテナンスしながら使えば使うほど手になじんできたりするが、「手になじむ」という感覚を掴む前に手放すことを繰り返す。

古い道具を使おうということが言いたいのではない。新しい道具も古い道具と同じように使いやすい仕組みづくりを考えてみてはどうか思う。
例えば修理するより新しく買うほうが安いというよく分からない状況を変えられるよう、修理も部品をユニットごとに分けて、どこのパーツがいかれたかの判定および、それらの入手、着脱は素人でも安価にできるようにする。それでも難しいなら、業界全体で新品の値段を上げ、販売台数を減らす。もちろんリサイクルについても引き続き努力をし、リサイクルに出したものが、実際どのぐらいちゃんとリサイクルしてもらえているのか、もっと分かりやすく知れるようにするなど、気持ちよく環境負荷低減に関われるようにする。(同時に企業の体制を大きく変えないと採算が合わなくなったり、技術開発で他に遅れを取ったりするなど、現実に大きな障壁が予想されるがとりあえずの理想論だ。)

機能ばかりが増えすぎて、All In Oneで、そのせいで本来の機能が使いにくかったり、どこかごく一部分の不良のせいで全部が使えなかったりする道具にはもううんざりだ。その機能は、道具本来の目的を達成するために本当に必要なのか。ものの開発と同時に、それを取り巻く環境のデザインも大切という話。デザインする人たちは、こぞって仕組みづくりを考えはじめている。

味噌づくり
先日みんなでニッポンの食卓には欠かせない調味料、味噌を仕込んだ。
味噌だって、どうやって出来るのかを知っていると、
一杯の味噌汁からストーリーを感じられるようになり、
暮らしがほんの少し、豊かになる気はしませんか。
暮らしは道具でなく、手がつくります。

Depth

車窓からの富士山
久しぶりに東の都へ足を運んだ。文字にすると非常に抽象的で分かりにくい話だが、なんとなく思ったことがあったので、久しぶりにヒトリゴト的な文をつらつらと。
「価値」とは人が認識するものだから、そこに人がいる限り、どこにでもあるものだが、都市ではあらゆるものの価値が見立てられてしまっているように感じる。もちろんそれは悪いことではなく、生活者としてとても楽だ。だが、価値を見立てることを業とする者にとってはあまり面白くない。極端に言えば道ばたに生えたたんぽぽが美しいといったことすら価値が見立てられているようにすら感じる。常にそんな見えない誰かの声に囲まれ、全部受け止めていたら頭の処理が追いつかなくなって来る。
価値が見立てられすぎているところでわざわざ価値を見立てる必要はないから、価値が見立てられていないところの価値を見立てようということが言いたいのではない。価値が見立てられていないところに拠を有する者として思うのは、望んでいないものの価値を見立てて回る必要はないのではないかということ。きっと胸の内にそっとしまっておくほうがいいものもあるということと近い感覚だと思う。わざわざ言わないけれど、美しい。「間」や、「しつらえ」、「気品」などという言葉で表現される事物は無為に語らないものである。日本人らしく、そういう奥行きのある感覚に身を任せておくのが心地いいのだ。その先に、ここでの暮らしの中の多くの物語が一番輝ける場所があるような気がするのだ。暮らしの物語のポテンシャルとでも言う方がわかりやすいだろうか。なんでもかんでも説明してくれる、美術展の音声ガイドみたいなものでなく、説明しすぎないけど(もちろん要求されたら語れる)、肩肘張らない暮らしに心地よくなじんでいくものを考えて行きたい。これからも謙虚に、アニマに最大限の敬意を込めて、必要に応じて価値を見立てながら暮らしていこうと改めて。暮らしにもデザインにも奥行きを。
ねこじゃらし
事務所に入ってきたアオジ
パンダのキャラの横断幕
淡河小学校の横断幕
小中学校にパンダ一家の横断幕を納品してきました。

Here & There

「ブラウン管の向こう側」という歌詞があるが、タッチデバイスで新聞を読むときの心理的な障壁は紙の新聞を読むときのそれとそれほど差がなくなり、近頃はブラウン管のこちら側に近づきつつあるなぁと、事務所の入り口に鎮座されている古いiMacを見ながらしんみり。このiMacのボリューム感からは、まだ「画面の向こう側」という印象を受ける。
事務所のiMac DV

というのは、新しい機材がやってくるのでこのiMacをどうするかを思案しているのだ。古すぎてパソコンとして使うには流石にしんどい。かといって置物として置いておく、リッチな空間使いができるほどの場所持ちでもない。検索してみると、水槽にしたり、植物の温室にしたりする人もいた。楽しくアレンジするか、処分するか、収納するか、それとも、引っ越すか!?

6th Anniversary

cott6周年
cottもはや6周年。
良くも悪くも適当にやって来て、
昨年はようやく長年の目標をひとつ勝ち取る事ができた。

舵を切る準備がようやく整いました。いざ7年目。

デザインの世界と関わるようになって10周年。まだ10年であり、もう10年とも言える。昔は比較的新しい設備でデザインの世界に飛び込んだと思っていたのだが、いつの間にか結構時が経っていたらしい。当時Intel Macが発表されたばかりで、早速導入した。新しいものが楽しくて、古い環境に固執している人たちを不思議な目で見ていたのが、今や、そう見られているのかもしれない。(全くストレス無く、といえば嘘になるかもしれないないが、もちろん今も割と抵抗無く新しい環境になじむことができる。)特にデジタル機器がそうだが、当時はウン百万したものが、今や、両手で数えるほどの値段で買えたりする。年に何度もモデルチェンジが行われ、新製品を買った喜びもつかの間、1年もすればもう型落ちになってしまう。新しいスペックのマシンや新しいデバイスが続々と発表され、いつしか、使っている電子機器はほとんどが型落ちのものばかりになっていた。

というのは、プロとして大事なのは性能やツールを追いかけることではないことを身を持って学び、新しい道具に必要性を感じなくなって来たからだと思う。それがどんなツールであるかを知っていることはもちろん大事。だが、どんな時も自分の思考を最大限に広げてくれるのに必要なのは手と頭。あとはある目的を実現するための道具の使い方をちょっと知っているのみで十分に足りているのだ。

本当、クリエイティブなことが手軽に実現でき、思ったことを表面的に広げるツールは本当に発達した。そのうちタブレットで書いた絵をそのまま印刷会社に、というようなサービスも出てくるだろう。WEBも同様に、素人でも簡単にページを作って全世界に情報を発信し、運用することができるサービスが広がっている。
クリエイティヴィティが誰にも近くなったのは本当にいいことだと思う。だが、表面が広がって喜んでいるのではエンドユーザーと同じであり、そこに飛びついてねこじゃらしで遊ぶ猫みたいに喜んでいるのはちょっと違う。

プロの域は表層のしつらえでなく、仕組みそのものを整備して行く方向にシフトして行きつつあるように思う。かたちに潜む意図を考えられるプロフェッショナルでなきゃ、淘汰されていく。(理想を言えばそうだろうが、プロでなくともできる世界のデザインもきっと残るだろうが、そこは絶対的なテクニックやノウハウでプライドを持ってやろうと思う。)

鋭意準備中

段ボール加工
試作中
軽トラに運搬保護材を載せて
デザインX軸展設営中
ルミナリエ準備中

先日案内したJAGDA兵庫の展覧会「デザインX軸展」は12/6-15です!
ルミナリエは12/5-16ですのでついでにぜひ!
阪急三宮駅西口より南にすぐの建物センタープラザ2階です。
相変わらず、こういう展覧会では設計&ドカタ班ですが、
今回はcottから掛け軸ポスターもちゃんと出品しています。

ぐっ、と。

事務所のストーブ
寒くなりました。
エアコンもつけてはいるけれど、火のぬくもりと立ち上る水蒸気。
そしてなんといってもこの匂いが好きなんですね。
餅を焼くのが楽しみ。
お湯がわいたら熱いコーヒーを入れて、
この冬もぐっどなデザインを生むための力を注ぐ。

季節の変わり目。みなさまもお体に気をつけて。
なお、cottは特別営業期間を終えて、来週から通常通り土日祝休みに戻ります。

潤滑油

第二回目のまちづくりワークショップからはや半年以上。
最近は町内でもようやくみんなの思いが重なっていきつつあるなという印象がある。

この記事にいきなり辿り着いた方にはわからないと思うので簡単に説明しておくと、今後のまちについて考えるためのワークショップを第一回、二回と実施した。こういう農村地域で、オーソドックスなワークショップをすると、挙がるのは大抵が問題点。第一回ではそれがたくさん挙がったので、第二回目ではその問題点を参考に「べっちょない(問題ない)」と問題点を利点に変える発想を養いつつ、今後につながるアイデアを出し合った。

たくさんの「べっちょない」が挙がったのだが、今日はその番外編という事で個人的な「べっちょない」のエピソードを。
半分おふざけでくだらない内容なのであまり誰にも話していないが、案外本質に近いのかもしれないなと。
(繰り返しますが、くだらないかもです。半年前に自分でもボツ記事にしたぐらいなので…)

一年半ぐらい前。
まだ梅が咲き始めたぐらいの時期。
たまたま近所に居て少し時間があるからと
友人が尋ねて来た。
近隣を散歩しながら案内しつつ、事務所に戻って談笑していると、
「さっき綺麗なお姉さんと歩いとったやろ」と、いつも尋ねてくるおじさんがやってきた。
その友人との関係を説明し、少し話しこんでいるうちに、また別のおじさんがやってきた。
さらに引き続き話しているとさらに別のおじさんも。
気付けばいつの間にやら平均年齢30弱の会は一気に倍ほどにまではね上がってしまった。

お茶を出してそうこうしていると、その子の母が迎えに来て、
おじさんたちは「おお、綺麗なお姉さんがやって来た」と群がる。
どこまでもお姉さんに貪欲だ。その肉食ぶりは昨今の若者にぜひ見習って欲しい。
その日はいまでも時々思い出す素敵な思い出だ。

また、別の日に平均年齢60後半ぐらいの花見に参加してきた。
「いま事務所か?いまそこで花見しとんやけどこおへんか?」
「いや、いま友達が来てるんで。」
「その友達も連れてこんかいな。はよこなあんたの分なくなってまうで〜」
というわけでお誘いを受け、参加させていただいた。
話題は孫の話。
「そういえばお孫さんたまにバス停で見るんやけど学校いっきょるんですか」
Aさん「せやねん。」
「何の学校に?」
Aさん「いや、何の学校行きよるかわからへん。」
「なんでですか?」
「聞いてもわからへんしあんまり聞きよったら怒られるから聞かへんねや。いや、ほんま最近の女の子は難しいわ。」

Bさん「せやなぁ。いや、わしもな、水かけられたんや」
Aさん「なんでえな」
Bさん「いや、せやからチチや。孫の成長が気になってな。気になるから風呂場にいこう思って脱衣所をガラっと開けたら上から水が降ってきてな。嫁が待っとったわ。」
(一同爆笑)
Cさん「ほんま、女の人は一枚上手やの」

突然何の話かと思うかもしれないが、
そういう「絵に描いたようなエロじじいがたくさん居る」ことが、
実は私の「べっちょない」。

というのも、例えば私も加入する消防団。
一家からひとり(長男の場合が多い)出て、
活動といえば消防車でパトロールや訓練。
だが、それらにそれほど時間はとられない。
どちらかといえば、飲み会の時間の方が断然長い。
もともと趣味も仕事も違う、近隣のコミュニティ。
共通の話題はそこそこ年齢になってくれば、気候の話や田んぼの話、健康の話など。
昨今の若者にとってはそれがあまりない。
それをうまく機能させるのに一役買っているのが、
田舎のいわゆる地域を自分たちで維持するための用事であり、
その対話の場にあるのが例えば酒、たばこ、博打、女だ。
昨今の価値観を当てはめると典型的な駄目男の道具と思われるかもしれないが、
近年は特にエロ以外の部分について農村でもそういう価値は薄れてきたので大丈夫。
ただエロは世界の共通言語で、
地域コミュニティを活発にする、モノガタリの醸造のためのいい潤滑油なのです。

つまりは自然とか受け継がれ続けて来た伝統もおもしろいけれど、
それはつまり人がおもしろいわけです。
田舎ではどこどこのだれだれさんがここで何をして、
それが今になっても続いていて、という話を良く聞くでしょう。

ちいさけれどもたくさんの愛すべきモノガタリの中で、
また明日のモノガタリを大切に暮らそうと思うのです。
モノガタリは人が紡ぎます。
カラオケ喫茶にて

corocoro BAG

写真機材用ケース
バッグは快適に運搬できることよりも見た目重視。
いつも車移動でものをまとめて持ち運ぶ際も何個口かの荷物を車にぶちこんで必要に応じて取りにくる方式で済ませてしまうので、大量の荷物をコンパクトに収納してもまたそこから出したり片付けたりするのがむしろ面倒だったりする。
海外旅行でも常に背中に背負ってきたのだが、機能性も見た目もお気に入りの製品があって、ついにころころを購入。
田舎育ちに言わせれば転がすと言えば一輪車、あるいはおばあさんの手押し車を連想してしまうのか、街中でころころ転がすのはなんとなく滑稽のような、無防備なように目に映っていてあまり気が進まなかったのだが、転がすってこんなにも快適なものだったのですね。おまけに収納もしやすい。普段、重い物を動かす時はさんざん一輪車を使うくせにそこは強情に、この重さを背中に背負って重力に真っ正面から抗い続けて来た自分にあほらしくなってしまいました。物理法則はうまく利用してなんぼですね。

荷物を選んで詰め込むわくわく感。
きっと荷物だけでなくて夢も一緒に入れてるのでしょう。
かばん、器、コップ、ボトル、箱、建築。
入れ物が好きなようです。
使う人の数だけ多様な様相を見せてくれますからね。
そんなわけで夢と荷物を背負って、いやいや転がして、明日の撮影を楽しんできます~。

A Pencil

短い鉛筆

鉛筆をもう持てないぐらいに短くなるまで使い倒したことはあるだろうか。
われわれが小学生の頃、シャープペンシルは禁止されていて、
鉛筆を持てなくなるぐらいの長さまでよく使ったものだ。

そして今もうちでは現役でその持てない鉛筆を生産中である。

鉛筆はとてもいい道具。
適切なメンテナンスにより自由自在な線が描ける。
手になじみ、ぬくもりがある。
使うに従いカタチは変わり、寿命が可視化されている。
そんなふうにその人にフィットする優れたデザインで、
これからも無くなってしまうことはないのではと思うし、
なくなるまで使い続ける。

そして、短くても一応書けるので、捨てられないんです。
なにかいい使い道はないだろうか。
持てない鉛筆が、モテる鉛筆に変わるアイデアをぼんやりと。

Do it

春の匂い
雑草のある風景
路傍のつばき

デザイナーが写真を撮るわけではないのですが、
写真が撮れると便利です。

とんでもなく予算が少ないけどぜひ実現してあげたいというような仕事はローカルにはたくさんあって、そういう時にはひとりディレクターとして何役もこなす、ということはうちではざら。(本来はある分野に抜き出ている人に依頼して回った方が、スピード感もあって、クオリティも上がって、コストも安いはずなのですが。。)

デザイナーなら写真を撮ってる暇があれば手を動かしてデザインしてその道を究める最短距離を目指して、ある分野の中の限られたメソッドだけでも世界一を誇れるぐらいのずば抜けたものを持てという説もあるのですが、写真を撮ってもイラストを書いても図面を書いても文章を書いてもプログラミングをしても映像を作ってもスタイリングやヘアメイクをしてもええんではないかと。ディレクターを目指すなら。
その異分野のこともわかっていればうまく段取りが組めたり、交渉できたり、その道の知識が全体のデザインに役立ったりと、ディレクション力があがります。
ただし、実現したい目標を妥協無くハイクオリティーに実現できるのであれば。という大前提付きですけど。
その上でずば抜けるのです。
一方で、ある部分は信頼してその道の人に依頼し、コラボすることもとても大事です。
広い視野の中でずば抜ける。ずば抜けたらコラボが楽しくなる。想像もつかなかったものに仕上がってくプロセスはある種のエクスタシー。

写真に限ってはそれなりの道具があって、使い方が分かればある程度は誰でも撮れますので写真を例に話をはじめてみましたが、
クリエイティブな仕事といえども本気で才能がないとできないことは、ほとんどないでしょうから、なんでもやってみよう。ただし本気でね。
という業界内外関係なく5月病気味な若手に向けてのメッセージ。
じゃあ、いちにょっき。
たけのこ

Hint

断裁後の切れ端
ページもののサンプルづくり。今日はとにかく良く切る一日でした。写真は全部ゴミ箱直行のはずだった紙の切れ端です。散らかしてあわてて出て行って、提案から帰って来たらちょっとうきうき。画面から離れて目を細めて見ると、何らかの文具のポスターのようにも見えたり見えなかったり。

ヒントは至る所にあって、結構見逃しているはず。
という、ありきたりな話。

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