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陰翳を宿す

昨年末の話。
自宅から車で1,2分のところに寺がある。山の方に向かって少し坂を登り、一番奥にある建物が寺だ。村中の家が見渡せ、一休さんの話に出てくるようなTHE寺とも言うべき寺である。以前私がその寺を訪れたのはおそらく20年近く前だったと思う。
そこで除夜の鐘をついてきた。

鐘を撞くといっても撞くだけの人はいない。何をするかと言えば、甘酒を飲んで鐘を何度かつけば後は特に何もしない。灯りと言えばお寺の蛍光灯が少しついているのと、たき火のあかりぐらい。そんな暗闇の中で火を囲い、温かい甘酒をすすりながら年末年始の談笑。何でもない話だ。火のぼうっとした薄明かりで暗闇の中に皆の顔が赤く浮き上がる。人々は代わる代わる鐘の前に向かい、大きくふりかぶって鐘を打ち鳴らす。皆、その闇に広がる鐘の残響音に聴き入る。
永春寺で除夜の鐘を撞く
普段は人も歩いていないような夜中にただ人が集まって、108回目の鐘の音を聞けばいそいそと帰路につく。今思えばあの感じは今の時代には非常に希有で、子供の頃に体験していればひとつの心象風景となっているだろうと思う。残念ながら、私は子供の頃に除夜の鐘を撞きに来たことがないのでその記憶はない。確認はしていないが、おそらく「夜更かしが許される唯一の日に起きておこうとしたが、普段慣れていないためどうしても眠ってしまい、年が変わって起こされて、眠い目をこすりながら家で神様に挨拶をし、またすぐに眠った」というパターンを毎年繰り返していたはずだ。というのも、お寺での他のイベントはよく覚えている。いや、正確に言えばイベントの内容は覚えていない。紙芝居、人形劇の内容は一切覚えていないが、お寺の本堂の広い空間に響く音や奥まった部屋の薄暗さ、裏庭のすこし肌にまとまりつくようなじめっとした感覚やそこから一望できる村の風景の爽快さなどは感覚として焼き付いていた。除夜の鐘の残響音と暗闇の中で、風景が走馬灯のように脳内を駆け巡った。

日本人が大切にし続けてきた風景の生まれ方。

こうして直接的出来事としては覚えていないが、なぜか音や匂い、肌に感じる感覚として心の中に焼き付いている。所謂心象風景というものだろう。経験から心の中に広がる淡い風景。それはきっと日本人が大切にし続けてきた風景だったのだろう。詩的で、曖昧で、朧げで、はかなげで、日本的で美しい。昨今のように陰翳を消すのでなく、陰翳を愛でることで日本古来の感覚が磨かれてきた。自然に親しみ、その場所特有の湿気の多さや季節の移り変わりを認め、巧みに生活と自身の感覚の中に取り込んだ。

目を瞑れば闇の中からふつふつと湧き出てくる。そういう故郷の心を宿らせた風景はその土地の文脈を継いでいくための仕組みとしても重要な役割を果たしてきたのだろう。日に日に農村地域の生活に潜在する哲学に感服する日々。そういった闇や湿気を愛でる作法は今の日本にどれほど残っているのだろう。この場所にそれがまだまだ残っていたのは私にとっても新たな発見となった。というのも、うちの集落の全世帯が同じ宗教で(近年は一部違う家もあるそう)、その寺の檀家さんだそうだ。まだそういうものがかたちのみならず、思想として残っているのだ。そういうところを考えると、まだ新規住民が入って融和するというのも少し難しいところもあるかもしれないが、ひとまずその議論は今は置いておこう。

陰翳を自身の中に。

もちろんそのような日本人が生きてきた風景をむやみに肯定するつもりはないが、私個人としてはその地域の文化コードを引き継いでいくという意味で大切にしたいと誓った年明けだった。きっとそれは論理で語る高尚な方法論よりも優れたものであり続けうると思っている。コミュニケーションの対流を生み出すために、頭を使うのではなく、寄り添うのだ。ひとまず寺子屋などと呼ばれていた頃のように、もっと生活の身近な所に取り込みたいと思った。陰翳を礼讃しているだけでなく、陰翳を日々に宿そうと思った。年始に和尚様の奥様と少しお話させていただいた際、お寺にはいつでもぼ~っとしにきてほしいとのことだったので後日ぼ〜っとしに行った。そうすると、ご丁寧に寺中の所蔵している歴史的なものから建物まで全てご案内いただき、おまけにお茶までよばれてしまった。
今度、月一回細々と開催している写経の会に混ぜてもらうことにした。次はぼ〜っとできるのだろうか。(いま写経に来られている村の方々は饒舌な方ばかりだそうで…。)

座禅や写経、精進料理などが流行っているようだが、観光でなく、できるだけ日常として体験して欲しい。
ぼ〜っとしている時間を優雅と捉えるか、退屈と捉えるか。(決してスローライフという意味ではない。)
そんなところにいろんな問題をほどく結び目があるような気がしている。

淡河町勝雄の風景
神戸ルミナリエ
神戸イルミナージュ

余談だが、神戸市中央区では「神戸ルミナリエ」、神戸市北区のフルーツフラワーパークでは「神戸イルミナージュ」なるイベントが開催されているが、「ヤミナリエ」なんてものをお寺でしてみたいな、なんて思っている。
yasufuku
永春寺からの風景

わらしべ感覚

むか〜し、むかし。学生の頃の話。

旅行が好きで日本へ海外へとふらふらしていた頃。

いろんな旅行で取り溜めた写真群にそのとき感じていたメッセージなんかを載せて
ミニ写真集に仕立て上げて学園祭などで販売していたことがある。
デザイン性もくそもない、いまとなっては恥ずかしい代物なのだが、それについて忘れた頃に
久しぶりに再会する友人や購入していただいた方などからメッセージをいただく。

あのときはそれなりに真剣に考えていたものだから
その度にいろいろと思うところがあって
そんな小さな繋がりとまた先を見る意欲を生み出すきっかけをくれた
当時の自分とそのまわりの人たちに感謝である。

100均でファイルを5万円分購入してひたすらカッターで断裁してファイルに入れこんでいくあの果てしない作業。手伝ってくれた友人にはきっと一生感謝をする。

仕入れ値が105円、印刷代がほぼ0円(学生の特権をフル活用)、売値が確か300円。
人件費もくそもない仕事。
だけどその売り上げをきちんと貯金して
型落ちで安くなったエントリー機種のデジタル一眼レフを買った。

自分の力で社会にアプローチし、お金を生み出し、それが仕事の糧となる道具に換わった。
もっともプリミティブな人間とお金の関係を体現した瞬間だった。
いわば、わらしべ長者のような感覚だ。

よくも悪くもひとりでやってる間、その感覚はしばらく続いていて、
いまとなっては小さいなれども写真スタジオを持っている。

だから何だということもないが、
なんだかいろんなものやこと、ひとにいつも感謝をしている。
そうやって生きられている。
そういう意味で、これはまだまだ続く延長戦なんだろうなと。

朝もや

ここにわざわざ書くことでもないかもしれないし、
何でも感謝とかを口に出して済ませてしまう非論理はあまり好きではないのですが、たまには。

改めて考えると家の近所もドラマチックです。

今年はすこし早めに振り返って、いいスタートが切れそうな予感です。
yasufuku

How to draw a line

たとえば一本の線をどう引くか、もしくは引かないかという問題についてしばらく考えている。

白い紙にまっすぐな一本の線を引くとき、中途半端に濃い線をいきなり引けば曲がってしまうし消しにくい。その紙に極めて薄い下書きをして濃いまっすぐな一本の線を引く方がいい。

ただし、それは紙が白いという前提での話だ。
多くの場合、紙は白くない。特に農村地域において。

またその紙をじっくり観察して、薄い下書きをたくさん引くことからはじめようと思う。
そしていかに短く濃い線を引くかに徹する。
それがひとまずの結論。
神戸デザイン対談
神戸デザインエアポート2011終了しました。イベントにお越しいただいたみなさま、応援していただいた企業のみなさま、出品者のみなさま、厳しくも優しい諸先輩方、そして実行委員会のみなさま、本当にありがとうございました!
神戸デザインエアポート実行委員会
と、同時に淡河の文化祭。海と山のええとこ取りな週末でした。
淡河のおかあさん方の手料理
淡河町文化祭にて瓢箪を展示
瓢道綱領
飄々と謙虚にくびれよう。
yasufuku

道中につき

デザインとは何だろうかなんて問わずとも、
ひとまず誰かをしあわせにできたらそれでいい。
そう思ってはしるはしる。

鋭意製作中!
KOBE DESIGN AIRPORT展示ブース制作中
おいつけおいこせ。
障害物リレー
yasufuku

農村における誌面の効用

いつもお会いするたびに、原発や有機農法などの情報が掲載された誌面の汚いコピー数枚が折り曲げられたものをくれるおっちゃんが町内にいる。自身で情報を取捨選択し、ちょっとしたZINEのようなものを編み上げる。ある意味編集者である。それは私が欲しい情報かということは置いておいて。
私は普段仕事に関係のある資料以外では綺麗な印刷物をできるだけ刷り上がった状態のままストックしていて、他はゴミ箱行き。そのおっちゃんのZINEは例外なのでそのおっちゃん用ファイルを作って大切にしまっている。そのおっちゃんにもらわなければ確実にゴミ箱行きである。いやいや、ちゃんと読んでます、感謝していますということが言いたいのです。

また、あるおっちゃんは、私が頑張って作ったチラシをひととおり説明させていただきながら読まれた後は、目の前で小さく畳んでポケットにしまってしまう。特別な意図のない限り小さく畳むということは、仕事柄私の中ではゴミ箱行きに近いことを意味するものなのでそれを目の前でやってのけられるのはある意味事件なのだ。もちろんそれを目の当たりにしても顔の筋肉をひとつも動かさないぐらいの経験値は獲得しているし、そもそも自分が作ったものにはあまり執着しないので一向に構わないのだが。

しかしそれらの一連のことについてよく考えてみると農村の皆は情報の欲しい部分をうまくつかみとる術に長けている気がする。その人にとってレイアウトのデザインなんてなんでもない。比較的文字をよく読んで、消費を喚起する派手な様相や綺麗な見た目に惑わされず、自分に必要な情報を選び、再編集する。(どちらかといえば今風のシンプルで綺麗とされるレイアウトよりも、スーパーのチラシのような直感的に消費を喚起する派手なものの方が効果があるだろう。)

かいかぶりすぎかもしれないが。
ただ、「知っていること」は美ではないのである。

その紙は通り過ぎて火を焚くときなどの種になる。
近頃は両面ともに印刷されたチラシばかりなので子供が落書きする様子が見られないのが少々寂しい。

それはきっとそういうことなんだろう。

本当に見つめるべきは他にあるということ。
そういうことを思いながらグラフィックデザイナーとしては、それでも枠の中でじたばたする他ないのだけれど。
いや、しかし時には、それ以外の業も見せつつ、田舎のオッサンに変身しつつ、少し枠の外でもじたばたしてみようぞ。

Yasufuku

On The Road

潔くて気持ちいい看板。
潔い看板
壁面緑化とアノニマスに潜むモダニズム
過去に潜むモダニズム
力の及ばぬところを知り、鬼を感じて生きること
鬼の食卓
@石川県小松市

空から見れば、美しき島国。だけれど情報が集中し、多くの人が生きるのは東京。しばらくを電脳世界で過ごしていると、そらから眺める日本にはっとした。そういうわけで、地方なのだ。
これからもいろいろ美しい地を歩きたい。そして育みたい。
空から眺める日本
あと5年ぐらいは黙っておこうと思いつつ、黙っておかせてくれない仲間たち。積み上がる今。いつの間にやら巨大なプロッターやポストスクリプトプリンタが居座っている。ずいぶん事務所が狭くなった。まだたったの3年半ぽっちだという驚き。ちょっとした節目に、ちいさく乾杯をする。

受難者

アナログテレビの山
近頃日本の地方都市のあちこちでアナログテレビの山を目にする。
文字どおり、ちょっとした山である。海と言ってもいい。
建築もそうだが、そのものの寿命と言うよりも社会構造の変化で急に不要になったものたちは大変多い。(住宅の平均寿命 – アメリカ約44年、イギリス約75年、日本約26年。『国土交通省建築白書 1996』)近頃は原発もそれに近いだろう。

日本の社会が向かうアポリアを示唆する風景をまるのまんま垣間見たかのような感覚。
そしてそれを日本の片隅の景色として処理し、日常戻るときに感じる違和感。夢から覚めたときに似たあきらめのようなものを感じる瞬間である。

なぜ維持しようとする者、やさしいこころの持ち主は、いつも受難者となるのか。どうにもその種の問題は複雑で、それを紐解く論理は学者にでも聞いてくれと思うのだが、ひとつの単純理論で応急処置するのならば、たとえば大数の法則をあてはめてみよう。個人レベルではどうしようもない大数の法則が作用し、多くのあきらめが発生する。電車で1人の老人に席は譲れても、10人には譲れない。やさしい人ほどそれに対して心を痛めるが、いつもいつも痛めてはいられないから防衛機能が働くのは仕方のないことだ。うまく働かせられなければ闇の牢に捕まる。

農村は小さな流れで動く経済活動、社会活動がベースにあり、そういった世の諸問題が個人レベルで管轄可能なところが多い。そこに大数の法則による甘い汁をむやみに吸わせないで欲しい。日本はもちろん、世界レベルの話でもある。

yasufuku

SUMMER TIME BREAK

エアコンをかけまいと、できるだけ風を通して仕事をしているのですが、
近頃暑すぎて、
さらにサマータイムのため予定の仕事を午前中でほぼ終えちゃえる安心感も相まって、
作業DAYの昼休みはこんな状態です。
リキシャで休憩
昼休みだけですよ。笑
メリとハリで。
おっちゃんごめん。
Yasufuku

米をつくる一番の理由

並ぶ軽トラ
淡河農都ふれあい隊が行われました。
まちからお越しいただいた皆様に雑草を引き抜いてもらうなどの
ちょっとした農作業体験および生態系観察。
おもむろに雑草を引き抜き、
「ヒエ言うてなぁ、昔はこれも食うとったんやぞ」
と教えてくれるおっちゃんたち。

結局なんだかんだ「せなあかん」とか言いつつ、土を触るのが好きみたいで、
特に孫に
「野菜はおいしくないけど、じいちゃんのおにぎりはめっちゃおいしいね」とか言われると、
もっといい米つくろうと思うそうです。
やっぱりそれですよね。
根本には愛する者の笑顔を見たいがために今日も働く。
自然の美しさと厳しさの間に身を置いて。
ヒエ
サギ
田んぼの生き物観察
そんな神戸市内です。
そのあとは車で市街地まで30分。
神戸地域夢会議に参加して兵庫の長期ビジョンにの話を伺いました。

一般論に近いところもありますが、内容は非常に良くできているので、
問題は、
「そのビジョンをいつ誰がどのように行うか、どれだけアクションに移していけるか」
ということだと思います。

総合計画は急に知らされてもわからない。みんなで作ってこそ根付いていくもの。
完成後の分厚い冊子にでなく、そのプロセスにこそ重きをおきたいものです。

それにしても、農村都市関係なくこういったまちづくり活動の現場に行けば、ほとんどが私の倍以上、下手すれば3倍も生きてこられた定年後のおっちゃんばかり。おっちゃんおばちゃんは好きだからいいのだけれど、もう少し同世代とも一緒にやっていきたいものです。「地域の現状分析=問題を話し合った結果の愚痴大会」みたいにせず、ネガティブな側面もポジティブに変えるアイデアで、楽しくやりましょ。
神戸大橋
みなとこうべ海上花火大会
みなとこうべ海上花火大会
それにしても昨日の甲子園。久々に見たのだけれど、延長10回サヨナラ。本気でぶつけあう汗と涙。まさに青春。感動しました。酒場で居合わせたおっちゃんらと相当盛り上がっていました。て、自分もおっちゃんか。いろんな人たちと時間と空間を共有できるいまが嬉しい。
明日もまたどこかで新しい物語がはじまりどこかでおわります。
た〜まや〜。夏。
Yasufuku

素人ムービーのススメ

なんだか田舎もデザインも礼讃しすぎると気持ち悪いもんだな、
デザインのはしくれにいる者なら「いいんです!」って言うんじゃなくて
「ええなあ」と思わず言わせてしまうもんを提示したいもんです。
なんて思うと
そんな田舎のデザインブログとして何を書けばいいのやら。
ま、あまり深く考え込まず。

近頃は虫たちの鳴き始めを聞き、燃えるような朝日を見るのが趣味。
昼は暑いんですもの。田舎のおっさんを見習ってサマータイム。
燃えるような朝日

さてさて先日友人の結婚式に参戦。

他の皆さんの映像を見ていても思いますが、クオリティが上がってきていますね。

近頃私が個人的につくるものは、つくるつもりじゃなかったけど前日になって映像が
やっぱりほしくなってきたという友人のために3〜4時間でちゃちゃっと仕上げて、、
という便利な切り札的役回りのものが多く、
愛の大きさでは完敗のへなちょこ映像ばかり。
(今回は徹夜で1つ、2次会前に2つ、計3つも作りました。働くまい、楽しもうと思い、装備はいつもの1/3でしたが、結局頼られるのが嬉しくて、いつも以上に働いてしまうのでした。仕事ではできない久々の秒刻みスケジュール。)

素人ムービーはプロがつくるものなんかよりも心を動かします。
プロがつくる何十倍も時間をかけて、その贈られる相手のことを想う
というプロセスを経て、人を巻き込んでつくられる、
つまり愛がこもってるからです。
せっかくの機会なのでお金をかけずにいろんな人を巻き込んで、
そんなプロセスも含めて楽しんでみては。

近頃ははじめからPCに入っているアプリケーションの操作も簡単になってきていて、
MacならiMovie、WindowsならWindows Movie Makerで手軽に作れます。
友人が教えてくれというので、ご持参いただいた
Windows7仕様のMovie Makerを使ってみたところ、
勝手に音楽に合わせて写真が切り替わったりするのには驚きました。
高度なCGを組み合わせたり、放送クオリティを目指さないのなら、
プロ用のソフトなんて無駄にややこしいだけ。

そんな愛すべきストーリーたちは好きなので、
わからないことあればお気軽に聞きに来て下さいませ〜

もちろん、余興には映像以外でもいいと思いますが。
仲間はいいもんだ。
集合写真
次の式に向けてとりあえずKARAの練習をしようと思います。
Yasufuku

タオ

断片の集合と文脈

気付けば一ヶ月以上記事を書いていなかった。ツイート用付箋をデスクトップに配置して気付いたことをぽんぽん書いていくようにしていたのだが、半年間で溜まった未ツイートメモは13,000字を超えていた。携帯電話のメモも含めればゆうにその倍はあると思う。新しい情報ツールを半年余り。感じたのが「意見を言う、あるいは議論をするプラットフォームとしてはあまりにも断片的で貧弱すぎる。」ということ。私の場合は飛び道具になってしまいうる言葉を精査するせいかツイートの腰が重くなり、結局うまく使えない。また、何かに感動している時や人と何かをしているときに携帯電話に手を伸ばせるほど器用でもない。そういった点から考えると、どうも合わないようだ。本来はそういったことを考える以前の道具でにこにこつぶやいていればいいのだが、情報を商売道具とする者としてそうはいかない。初期感情をそのままむやみに四方拡散するという大衆的であり昨今のマスコミ的でもある行為はツイート対象とされた者たちの安易な選択を煽り、見るべき方向を見失わせる。そのため、不特定多数の皆が報道等で知っていることに関して一個人では裏の取れぬ情報を発信するのであれば特に注意が必要だ。

たとえば分かりやすいので政治を例にする。初期感情の集合による世論が即座に国中に広まるので世の中の気分を見るのはいいが、それによる決断がなされてしまうようになると、政治が木を見て森を見ずな方向に進むだろう。(これは農村にあるデザイン事務所ウェブログで政治的なことや意見はあまり書くつもりはないので具体的なことは書かないが、)能力の有る人や士気のある人たちが批判も恐れず奮起して何か変えてやろうとの熱意で勢い余ってタブーに少しでも触れてしまった結果、叩かれて引きずり下ろされる事態も起きている。結果、腫れ物に触る術に長けてはいるが肝心の能力のない、言わば単なる良い子たちが生き残る。今後も政局では大切なことを差し置いたまま誰はふさわしいふさわしくないと人事に関する議論ばかりに経費がさかれ、首相が代わり、政権が代わり続けるということが起こりうる。世の中の気分を代弁するばかりでは結局すぐに捨てられてしまうのはデザインに関してもそうだ。個人の意見が瞬時に遠くまで届くのは良かれども、ゲームではないのだから多方に情報を飛ばす力のある者ほどそれ相応の情報倫理が求められるべき道具だ。

そういう理由で、ツイートは溜まりに溜まった。それらの断片的にまとめられたメモの集合を利用することはできまいかとも思って置いておいたのだが、変にまとまっているので、何かを考えるときどうもそこから拡張しづらくて結局お蔵入り。掘り下げられぬまま放っておかれたごみのような戯れ言はかりが溜まる一方だ。短くまとまっていることもいいのだが、文脈を理解し、行間を読み取ることも実社会の中では相当大事なこと。ある意味自分の都合を話してばかりで、文脈を無視した否定すら大きな力を持つ世界はどうも危険だ。たとえばその究極が京ことばというもので、それらは恐ろしいほどに裏の意味を含み、そういうものの重なりが気品を生み出していた。訪問先で「おぶういかがどすか」と食事やお茶を勧められたらもう帰ってくれということを意味していたり、「よう勉強したはりますなぁ」という相づちは、興味がないので話題を変えてくれていうことを意味していたりする。その社会で生きるためにはそのルールや文脈を前提としなければ成立しない。それがいいというのでなく、日常にはそういう世界も重なっているという話。光の当たっている断片を捉えた議論ばかりでなく、きちっと闇の部分にも向き合っていかなければどうも先が見えない。そもそも「奥ゆかしい」とか、「しつらえ」、「間」などの概念に見られるように、日本は気品に満ちた文脈にあるのです。多くを語らねども隅々まで行き届いた配慮を認識させる。ある意味デザインの考え方とも近いそういう日本的美意識は世界に誇れるものだと思うのだが、今日はなかなかそういったものが出てこない。そこらの日本人のアイデンティティーがもう少し生きる情報技術のかたちというものがきっとあるのではないかと思うのですが。

風に吹かれてゆらりゆらりと

まぁそういうわけで今後はツイッターをもう少しゆるりとコミュニケーションツール、あるいはあえて飛び道具として利用したい。ある意味一部の断片の集合をタイムリーに閲覧できるのもコンセプトとしてはおもしろいがそれが全てでない。そんなに声高に言いたいことが別にあるわけでもないのに、1日1回何か言っておいた方が良いのではないかという脅迫にも似たシチュエーションの不自然さに気付くのが遅かったか…。わざわざぶつぶつ言おうとしなくていい。またブログにおいても、物事に対する知見は控えようと思う。文章という手段で世の事象について人様の前で物申せるほど優れた人間でもないので戯言はノートの片隅にでもそっとしまっておいて、農村デザインの日々についてもう少しゆるりとして書いていければいい。言いたいことの本質でなく字面の片っ端を拾い上げてどうだこうだと言う人もいて、文字列はとんでくので意見は直接に。そしてしっかりと文脈に生きる。少し前からそんなことも思いつつ、ギアをニュートラルに戻し、何事ももう少しナチュラルに、アナログベースで考えるように戻した。

そのせいか、仕事でもそうでなくても人に会うことは少し多くなった気がする。
後輩たちに会い、希望がある奴ほどスパルタにケツを叩く。また違う後輩には自分の教えたことがしみ込んでいることに嬉しさを覚える。先輩に会い、馬鹿な話9割5分、アドバイス5分をいただく。近所のおやじに会い、日々、自然界のご機嫌について話す。じゃがいもをもらう。村の重鎮に会い、夢を伺う。友人に会い、現状についてあれやこれやを話す。あるいは特に話さず、その場の心地よさに身を委ねる。同士に会い、手の内全部見せて向かいあう。大学の教授に会い、ありがたいお言葉をいただく。何か始めようとしている、あるいは何かを始めた仲間たちに会い、勇気をもらう。ああでもないこうでもないと馬鹿なことをいいながら真剣に取り組んで来た時間というのは、今になってもにおいたち、力を与えてくれる。

水にたゆたうクラゲのように
はなれ、またいつの間にやら集まって来る。

そんな時をまた重ねていきたい。

ああ、もらってばかりです。
今日もありがとう。
少しでも還せますよう、もう少し。
そして、少し先ですが、秋冬、春先に楽しいお知らせができそうです。

蝉が鳴く声を聞きながら、もうすぐ夜明け。
何せ今日のたわごとを要約すれば、トイレは少し臭いぐらいでちょうどよいということ。

美しいものには人の心を救う力がある。
いや、むしろ人の心を救う力を持つものを美しいと思う。
今日もそう信じ、皆の幸せを願う。
夜明けに窓を開けて農道を走ればどこかにそのまま飛んでいけそうな気がする。
だったら白い入道雲に乗っかって夢を探しにゆこう。
タオ。無為自然スタイルで。

トマト、キュウリ、なすび、かぼちゃ。
夏野菜が食卓を彩るようになりました。

安福
木々の間にて
©TRUNK DESIGN

旅のいろいろ

先日は讃岐へ。
時を重ねたものだけが持ちうる空気に触れた。
レトロ

味わう。そして生活者になる。

まず見知らぬ地でするのは真似をすること。
今までの自分を空っぽにして、食べ物や好きなもの、習慣、言語、言葉遣い など、徹底的にそこに居る人の真似をする。
つまり旅行者でなくそこの地の生活者になること。
いろんな地域を俯瞰してまわるのもおもしろいが
生活者になってみればまた違った見え方をしてきて格段におもしろくなる。

皆と同じようにそこに寄り添ってみることで
なぜそれがそこにそういう形で存在するのか、少しずつ見えてくる。
いきなりやりすぎてしまうとパロディに近いものになってしまうし、初めはもちろん不自然なこともあるだろうから、ゆっくりでいい。
そのうちまるで役者であるかのように、何にでも染まれるようになってくるものだ。

文化やコミュニティに潜む核心をつかむこと。
それは必ずデザインにも生きる。
だから時間はかかってもいいからそうする。

おぼつかない足下で目先に用意され続けるかすんだゴールに向かって走り続けるよりも
はっきり見える的を見据えて確信のある一歩を力強く。
他が見えれば自分のところも自ずと見えてくる。だから地域ブランディングやコミュニティ、景観に関わる人たちはそんなふうに旅をされても面白いと思う。
亀岡の朝

道中にて。

20年ほど昔はフェリーに乗って島から島へ。船に響く重低音と吹き抜ける風に興奮し、闇夜を再び走るうちに眠気に誘われて気付けばまどろみの中に懐かしい家の匂い。そのまま大人たちの会話をよそに布団の中に顔をうずめた。5時間の長旅だったのが今や2時間弱。
なんだか寂しいというか味気ない。
そう感じるのもその道中に至る道のりが豊かだったからに違いない。

今ならきっと船を待つ時間にふとポケットに忍ばせておいた文庫本を読みふけり
文庫本を閉じてすぎゆく風景を眺めながら物憂げな顔で何か考えごとをしているフリをする。
そんな時の中にすうっと身を委ねて
ザワザワして落ち着かない心を静める。
まるで僧侶にでもなったかのようにわざとキザったらしくその道中を味わう。

今日の交通網にはそんな時にふけるために十分な余裕がないのである。

無駄のない移動のためのみに特化した行為は、ため息で曇る窓ガラスの先に浮かぶぼやっとした淡い風景を眺めながらもの思いにふけるには不十分だ。

しかし、毎日の生活の中にそんな空気を感じられる時間は今こそ必要なものではないだろうか。そんなことを思いながら二十数年間の軌跡をこの地で結うべく西へ東へ東奔西走する今日。

さて、今日もまた、どこ行こう。

神戸発高松行きフェリー
トンネル
道路建設中のくもりぞら
竹ドーム

東京ミッドタウン・デザインハブ 第27回企画展「日本のデザイン2011」- Re:SCOVER NIPPON DESIGN デザイナーが旅する日本

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