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OGOGOGO! -地域活性への道- Archive

流すその水はどこへ行く

地球環境問題
地域コミュニティ
労働問題
ニート
自殺率の増加
虐待
その他倫理や道徳に欠ける凶悪犯罪

現代的な社会問題の多くは煙や水の流れる先に関して無関心であることが大きな原因となっているように思う。

自分の都合のいい情報を得るインターネット。大変有用であるが、自分の望まない不要な情報は入って来ない。目の前の風景の意味が薄れ、たとえば究極の話、「隣の住人が死んだ」すらも不要な情報だということも多いにあり得るのが恐ろしい。

そういう意味で、田舎はとてもいい。不要な情報がたくさん入ってくる。
うちの集落にも3羽ガラスなるものがいて、バイクで村を走り回り、地域の情報を瞬時に伝達する。その正体は、ただの世間話が好きなおばちゃんなのだが。内容は特におもしろみのある内容ではない。(これは悪口ではない。礼讃だ。)自分の興味ある内容について語られることはあまりないが、それは決して否定すべきものでなく、地域に潤いをもたらしている肯定的な存在である。(そう思えないと、地域に溶け込むことは難しいかもしれない。)

田舎が閉鎖的だと言われる所以は、日常生活において常に関わってくる濃密な関係性にある。その土地を守り続ける定住者として地域を常に監視しているから、何かコトを起こそうにも起こしにくい。監視されているという言い方は悪いかもしれない。見てくれているのだ。子供だって見てくれている。美しく言うならば関心を持って関係性を保ちながら支え合って生きていると言えばいいだろうか。

身の回りの風景についての情報を多く共有することにより、一体感が生まれる。(その反面、外から見て閉鎖性を感じさせることになる。)自分が流す水や煙がどこでどうなるか、理解を深めることができる。
おかげで、火をたくときに煙の行く先を気にしたり、ゴミの出し方を守ったり、庭の体裁を気にかけたり、生活態度を改めたりしようと思うことができたりする。無駄なしがらみや動きが増えただけではない。便利であること、自分の都合がまかり通らないことも地域を守り育んでいくために大切なこと。それは相手を思いやることの延長だ。最近はエコと叫ぶよりも、当たり前に社会とつながり、相手を思いやることの方が地球環境問題に対して有用な気がしている。

身近なひととの繋がりや地域の風景と自分との関わりが増えること、それこそ豊かな社会と自身の暮らしを築くカギだ。

先月食べたへそもち。餅米に米を混ぜてつくる。
へそもち
いわゆるとんど焼き。年々規模が小さくなってきてはいるが、これはおそらく生まれてから二十数年毎年当たり前のように続いている。書き初めを燃やして高く舞い上がれば字が上達するそうな。当たり前にこんなイベントが日常にある毎日に感謝。
来年はもう少し人を巻き込んで規模を少しずつ戻していければ楽しいだろうなぁ。

安福

農村地域に対してクリエーティブには何が可能か。

説明も何もなしに、昨年末のWEBサイトリニューアル時に掲げさせていただいたコピー「農村地域に対してクリエーティブには何が可能か。」。
今日はそれに対しての考えを書こうと思う。

長くなりそうなのでまず結論から言うが、何だって可能かもしれないし、何もできることはないかもしれない。それは依然として疑問符で、あえてそれをそのまま掲げた。

デザインはいま、社会の需要に適合するもの。

だからといってデザインに対して迷いがあるわけではない。それはそれ。これはこれだ。潜在的ニーズを探り、飛躍的な発想で生活を豊かにするデザイン。
その力を信じていながらも、信じているからこそそこに適用できるかどうかを考えるのだ。つまり、「デザインでこう状況を変えることができると確信していること」と、「そこにそのデザインが必要か」どうかというのは別問題である。
デザインは必要とされなければ用をなさないし、多くは実行と他者が伴うものなのでダビンチやアインシュタインのそれのように100年後には理解されるだろうと先手を講じることは難しい。

そういうわけで「田舎はださい。だから地域にデザインを。もっとブランディングや情報の風通しを良くしていこう」と声高に言いたい訳ではない。
別に夢の田舎にするつもりはない。本当に必要とされていないところにこちらの価値を押し付けるのは乱暴だ。
例えるならばボクシング部員にバイオリンの弾き方を教えるようなもの。

よい地域とはどういう地域か。

デザインで地域の見え方を良くすることで、地域が経済的な発展を遂げるための方法論は至って明快だ。村の総意を問い、顧客の声と照らし合わせながら、そのゴールに向かうブランディングの方法を確立する。
しかしあくまでもそれは地域が経済的発展を遂げるための方法論である。

地域が経済的な発展を切望するあまり、地域の心がおいてけぼりとなってしまうのでは地域が地域たる意味がない。地域に訪れる人が増え、成功に見える事例も、実際には地域の自然や安全なコミュニティが犠牲にされていたりする。それはその土地に生きる者が望んだことでもないだろう。
ものごとには全て一長一短があり、それらは表裏一体である。

繰り返すが、発展とは人が増えることでも産業が発達することでも文化財が保存されていることでもない。本質としてあるのはそこにいる人が安心して幸福に暮らし続けられる地域であるということ。(たとえば3世代以上の定住率だとか離村率というような指標で近似的に量ってみてはどうか。)その一要素として産業、雇用、(未来を感じられる程度の)人口、安心なコミュニティ、健康、医療保障、教育、などがあるわけだ。「それらはどういったバランスを保てるのが一番良いのか」という問題に対しては地域の数だけ解がある。

そういう考え方で、例えば地域が閉鎖的だからもっと情報の流れをオープンにすれば地域が良くなるのかを考えてみるとどうだろう。ある部分ではそれは必要で、ある部分では必要ないかもしれない。ああしたらこうなるから、こうしようという単純な議論でなく、ケースバイケースで少し掘り下げて多角的に議論してみるといい。

活性化とは何が潤うことか。

地域活性化という単語がよく使われているが、何をもって活性化と言うのかはケースバイケースであるにも関わらず、乱用され、結局のところ何を目指しているのかわからないまま何かしらのイベントなりが行われているようなケースも少なくない。
本当によい地域とはどういう地域でありどういう地域を目指すのかをその地域ごとに設定し、落とし込むこと。この大切な議論がなされぬままでは何の意味もない。

もちろんその議論すら持ち込めない地域も多くあるし、そういう局面になるであろうと誰もが予想できるような状況であっても結局のところ直面して本当に困ってからでないと動かないケースも多いし、困ってからはお手上げ状態でこのまま終わるしかないというような状況になってしまうケースも多いだろう。
そこに地域ブランディングの難しさがある。

寄り添い、地域の一員として日々暮らすこと。

cottとしての農村への意識としては村を変えて行くというよりは、そこにあるんだからそれは良いほうがいい。という意識だ。
もちろん個人的にはもう少し先進的な試みなどを推し進めていけばいいのではと常日頃から思っているが、自治会の役員クラスのじいちゃんならまだしも、こんな若造が声を大にしたところで皆ついてきてくれるはずもない。田舎では自分の考えは自分がそれ相応の役職について並の生き方をしていなければ通らない。並の生き方とは、たとえば妻子を持ち、正社員で長年勤め、真っ当な収入を持ち、休日には田畑を耕し、村の付き合いに参加することで、かなりの時間と労力がかかるのである。並以上だと村の付き合いに参加しにくいほど忙しいだろうし、並以下だとはなから信用されない。村は自己実現する環境からはほど遠い。

ただし常にデザインやブランディングという観点から先進的な提案の用意はしておく。提案をしてはみるが、それが必要とされていなければする必要もない。その隙間を縫って進み続けるだけ。そういう意味で、可能であり不可能と述べた。
茅葺き軽トラバー

地域の事情

誤解を恐れず述べるのならば、古き良きの奨励だとか自然だとかそんなことはもはやどうだっていい。もちろんそれらは農村地域の資源として有効に活用すべきだが、当たり前に、そこで生活し続けてきたものを外からああだこうだと言われたところで急に何の話かと思う。

ブームでこられたのでは地域に溶け込みにくいのは目に見えている。
浅はかな考えで来られたのでは、来られる側もいちいち構えてしまう。
地域には暗黙の了解的なことが多くあり、それらを教えるだけでもかなりの時間を要する。だからそこに骨をうずめるほどの気持ちで来てもらわないと困る。
骨をうずめる意思(家を買う、土地を買う、妻子を持つ、などを通して見る)が見えないと「どうせよそもん」と、意見に力を失う。地域に意見を伝えても受け取ってくれないことが多い。

都市住民の事情

とはいえ、いきなり骨をうずめる覚悟で来いと言われても、実際田舎の生活や付き合いがどれほどのものかもわからず、いきなりそこで一生暮らす覚悟など普通は持てるものではない。田舎で付き合いが必要というのもわかる。来てみたら意外に付き合いが想像していたほどではないという話もあるし、やっぱり合わないというケースもある。都市、農村と関係なく皆が幸せに暮らすことの出来る糸口は少しずつ探っていかなければわからない。

地域は誰がつくるか。

地域は結局のところ当たり前ながら住民がつくる。先進的なことを言う人がつくるのでなく、みんなでつくる。だから都市的で先進的な価値観も必要であり、農村特有の古くからの価値観も必要だ。
茅ティピ
地域に貢献するのは慈善活動ではない。というか、慈善活動とは思っていない。自然にその場所で育った者の習慣をそのまま遂行しているだけだ。

私たちの小さい頃、育ったその場所を魅力的に感じさせてもらった恩を当たり前のように次の世代にも感じてもらうような地域づくりをする義務がある。ただその義務を果たすだけで、村を変えるだとかそんな大それたことをしようとするつもりはない。義務というか、昔からそう続いてきた。そういうものである。どういう風に自分はなりたいとか、自己実現めいたことを考えているわけでもない。

たとえば、別に仕事内容だって田舎のものやオーガニック、ナチュラルなものにこだわっているわけではない。都会のデパートの商品のブランディングだってするし、都会のクラブで一晩中大音量の音楽のもとVJだってする。深夜にラーメンだって食うし、酒だって飲む。田舎の自然や家でとれる野菜などももちろん好きだが、それをエコやロハスというような概念で捉えたことはなく、当たり前のようにあるだけ。むしろここで一緒に育ってきた仲間が好きで近所の人や家族が好きで、たまたま仕事がデザインというちょっとハイカラな仕事だったというだけ。田舎がない人に言わせてみればそれはずるい言葉なのかもしれないが。

最後はデザインの話でなくなってきてしまったが、その地域にそれぞれが寄り添い、一員として日々暮らすこと。そのプロセスに冒頭で挙げた疑問の解を求めよう。あなたの好きな地域でなく、あなたのルーツの地域で自分らしく生きる術を授からんことを切に願おう。

2/4 追記
ちなみに難しく書いたが、移住組はなんとなくでも飛び込んでみたらいいし、迎える側は意外と何も考えてない。たぶんこの文章をよんで感じるよりもすんなり入れる。揃えるべきところでしっかりと足並みを揃え、こちらが心を開きさえすれば興味を示していろいろ聞いてくれる。ややこしい人というレッテルさえはられなければ農村生活はまず安泰であるはず。汗をかくこと。人に会うこと。

はしる茅葺き

2009年11月に開催した淡河そら祭りのワンシーン。
日本初、いや、世界初、走る茅葺きです。
とっても素敵な風景を肴に、
茅葺き職人 相良育弥との数分のドライブをお楽しみ下さい。

補足ですが、4トントラックなので3.8m以内なら積載可能です。一応道交法には適合しています。

実は立派な機材で撮影してもらったものの、家庭用と同じようにはPCに取り込めず、遅くなりましたが映像がやっと届きましたので少しずつ公開していければと思います。
あまり当時の記憶が鮮明ではなく、自分が話をしている場面もなんだか他人のよう。
それほど必死だったということだろうか。
記憶が蘇ってきて思わず笑ってしまう場面も。

畳む茅葺きや歩く茅葺きもありますのでお楽しみに!

REASON

Twitterでもつぶやきましたが、今日は婦人会、自治会、まちづくり研究会、わかくさ、老人会のみなさんに先日撮影した集合写真を100枚近く配布してきました。

しがらみがあって、変わたことをしていたら影でぐちぐち言われてすぐ叩かれる。それが素晴らしいデザインで地域貢献に意味のあるものだとしても誰か一人の理解が得られないために「振り出しに戻る」なんてざら。しゃれたデザインからはかけ離れた環境で、クリエイティブだけに集中できる環境かといわれればそうでない。
関係性が色濃くて、人が鬱陶しい。では、いいところは「自然」かと言えば一番にはそうではなく、何より「人」がいい。この一枚で伝わるでしょうか。それがREASON。
淡河町文化祭にて
さてさて、こっそりと新事務所計画中。ということで配置するものから、必要なデザインや広さを割り出します。まだデザインは確定じゃないので全貌は明かせませんが、ちょっぴり公開。
cott新事務所構想
住まい手の要求に応じていくためにもちろんセルフビルドでやります。お手伝い歓迎。また告知します。coming soon…。

農村地域に根を下ろす問題などについてつらつらと。

私は地元の方によく見た感じ怪しいと思われるのでヒゲそって、髪を切って、もっとシャツとかを着たらとよく言われるが、それでもあえて自分の好きな格好をしている。

都市の情報が入ってきやすくなったために、今の田舎の若者の価値観は多様で、そうはいってもこれぐらいの見てくれは都市に出れば言わば普通である。

昼は仕事をしているので夜集まる。
車だっていまどきの車に乗りたいし、好きなことだって様々。
業種だって様々。仕事時間は太陽とともにというわけにはいかず、夜中まで残業もする必要があるときもある。
それで怪しいだとか文句を言われたところで多様な価値観やワークスタイルの今の時代にはナンセンスな発言である。

とどのつまり、その地域で極めてナチュラルに育った若者が受け入れられない地域かそうでないかは地域を図るバロメーターだと思うからあえて自分の好きな格好なのだ。(もちろん最低限のTPOはわきまえる。)

原因を人に押し付けて、自分に問題があるとは誰も考えていない。

若者が集まるとろくなことはないという価値観のもと、口では若い人を増やすとか言っておきながら、実は拒否していたりしないだろうか。数字では増えてほしいと願っていても、いざ自分の生活のそばに若者がいると別に何も話すことはないし、影でうさんくさく思う人は少なくないように思う。

私的経験論から、若者が出て行く問題の根はそういうところにあると思う。
「昔からこうや」的な発言は必要なときもあれば邪魔なときもある。
村に情報技術が整備されて全国どこからの情報も得ることができるようになっているのにいつまでも昔ながらの価値に基づいて年功序列で足並みを揃えているのでは若者は村を出て行く一方で、村の循環はうまくいかない。
とはいってもたとえば実力主義の時代だから若者に実権を握らせろというほど極端な話でなく、今は昔とは違った足並みの揃え方なんてことを考えるべきでないかと思う。

「いまどきの若者は」「たかが若造がなんぼのもんじゃい」などと印象で言ってしまってはいけない。大事なのは表面的なイメージに関わらず、本質的な部分を見てもらうこと。格好はどうかというよりも村のことを考えて動いている。そこを見てほしい。

やっぱり動こうと思うのは、希望的観測から。

今は知らないだけではなく、知る必要がある。今後の地域のことを考えていくならば、時代に即して情報の風通しをよくすることが必要。ということで、地域で素敵な活動をしている「人」にクローズアップして、ぱっと見たら変わったことをしているけれども思いがあってしているということを理解してもらうため、また都市への情報発信のために情報誌を発行しようと計画している。

田舎で頭を出せばすぐ叩かれる。
情報が独自の伝わり方(ある意味インターネットよりも伝わる速度が早い口コミ)をして影でいろいろ言われたりする。
自分だけの問題だったらいいけど、それが家族のイメージにも繋がったりする。
それが嫌で出て行きたいと思ってしまう若者は少なくないだろう。
だから多くの人は叩かれないようにしようと思う。
それでも何度も頭を出そうと思うのは
田舎に深く根を下ろす問題が本当にどうしようもないことではなく、まちづくり研究会の皆さんとエネルギーを費やして接することを通して時間と少しずつでも変えていける糸口が見えるから。
それはネガティブな側面でもありながら、それほど自分だけで完結しない濃密な関係性は、少なからず安心なコミュニティや豊かな文化等、共同体でひとつの風景をつくっていくために大事なところであると思うから。

直接ひとりひとりと向き合って、コミュニケーションをすること。
そこに寄り添って、誠実に一歩ずつ。
淡河町歳田祭り
歳田祭りの太鼓屋台

Dig up a Rhythm

少し前の話ですが、東京から先生をお迎えして淡河八幡宮弓道場にて和太鼓の練習。
淡河川沿いにあり、その川を抜ける風がとても心地よい。
淡河八幡宮弓道場
作法がある東洋発のものって決まってそうですが
背筋がぴんと伸びるようでした。
一挙一動を丁寧に行うことで体の軸がすっと伸びると共に心も洗われる気がするから不思議なものです。
最近はヨガが流行ってますが、日本人にはこっちの方が合うのでは。

余談ですがいま、全国各地で古くから伝わってきていた音楽がたくさん消えており、
その土地に伝わってきたリズムが消えてしまうのはとても残念。
とりあえず自分たちの生まれ育った土地については見過ごせないので
淡河の地域に古くから伝わるリズム、話、歌について調べてみて価値を発掘し現代にアレンジしてみたいと思います。
情報あれば飛んでいきますのでご教授下さい。

まだ不定期でやっているのですが、たたきたい方もおられましたらご一緒にぜひ。
さとおと
「日本のふるさと音めぐり」
Coming soon…
太鼓の足立七海先生のブログ→http://taikonami.exblog.jp/

曽祖父の肖像

最近は行政に関する書類と接する機会が多いんですが、どうもしっくりこないものが多い。
地域が良くなるために行政の書類独特の言い回しに踊らされながら書類書いていたら気づいたらいつの間にやら地域に寄与することなど忘れてしまった感覚。

目的のために手段に踊らされていつの間にやら目的をわすれて本末転倒という構図。
世の中にたくさん。
なんでそんな曲がってくのでしょう。
一番怖いのはそれに慣れて当たり前になって気づかなくなること。

そんなねじまがったものがどうしようもなくてなるようにしかならないことにイラつきながら最近の癒しは饒舌なじいちゃんの昔話。草刈りとか昔飼っていた牛とかどっかのおっさんおばはんの話。
家族から曽祖父によく似ているといわれるのでその話を聞きながら頭の中に曽祖父の肖像を描くのが特に好き。

爺「なんや公会堂のほうでやかまし言いよる思たらうちの親父や。朝まで酒のんでやかまし言うて喧嘩や。ほんまかなんぞ~。ハメ(マムシ)見つけたら皮はいで丸呑みはするわ、酒はよう飲むわでの。酒のんでむちゃむちゃに乳絞るさかい牛が痛い言うて怒んねや。
まあせやけど殴ったりせえへんだけなんぼかましやったの。弱い人にはやさしかったしの。」

婆「じいちゃん孫にええ話教えたりよんのう。」

爺「そんなええことなんかあれへんで。そんな話なんか聞いても分からんの。だれかて自分が経験して初めてこれはこうやってしたらええねんてわかんのやでの。」
…(続く)

曽祖父のおかげでこんな仕事でも家族は認めてくれるんだろうなと頭の中のひいじいちゃんに感謝。うちの家系のパイオニアでシュールレアリスト。いまでこそ日本中でポピュラ−になった某農業器具の発明家で筋金入りの田舎のおっさん。

おかげさまで毎日が勉強です。
核家族化が進んできて農村地域においても確実に減りつつある大家族制度。それゆえ変化するコミュニティ感覚。
大家族制度が標準的な村社会では個人の都合が通らなくなることもあるけど、日々たくさんの人に囲まれて過ごせば何かと安心で、そこから世代間や近所の繋がりができて周りと共有できることも増えて子供も地域で面倒見られるようになって…

「いい地域ってそんな延長線上にあると思うが、それを今に置き換えるとどういった解があるんだろうか」なんて考えるが考えても始まらないのでまずは寄り添って少しずつ動いて少しずつ融合させてみることにする。

豊かさというのは個人の希望や都合が何でもまかり通ることではない。
個人の都合がなんでもまかり通るようになることが社会活動の目的ではない。
社会の基本原理は世の中を豊かにすること。風景と人の心を豊かにすること。

社会人ならそれだけは常に頭に置いておきたいものです。

時には地域、共同体の都合に従う必要の生じる環境に身を置いてそれに従うこと。
地域に彩を。
田舎の盆踊り

農都ふれあい隊2010

田植え体験
芋植え体験
今日は農都ふれあい隊。淡河町の区長や営農組合の役員総出でお出迎え。
皆様、素足で田んぼへ。まちでは味わえない感触にいろんな声が飛び交う。

こういうイベントを開催して思うのは、やっぱり子供はこうやって自然とともに育つべきだなあと。
田舎のおもしろさを味わってほしいと思いながら、もしかしたら開催する側の方がそう思っているのかもしれません。
猫の爪とぎ
爪とぎを中断してカメラ目線サービスをするミューちゃんの図。
猫だって自然の中でたくましく育ちたいのです。

話は変わって、10月1週目の日曜日には淡河八幡神社にて古くから続く秋祭りがあります。
宮司さんと話をしてたのですが、いつも使う神輿2台の他にも子供神輿が2台使わずじまいであるそうです。と、いうわけで神輿の担ぎ手を淡河町外からも募集します。(まだ詳細はこれからつめてみますが、女性と小学生にはあまり出番がないので、だいたい小学校1~3年ぐらいの子供神輿と、だいたい中学生~25歳以下女子によるギャル神輿で考えています。)
神様や人が乗る神輿ではないので気軽にで大丈夫。田舎の祭りを味わいたい方、必見です。
淡河八幡祭り
この行列に神輿かついでついていきたい方、ぜひお声をおかけ下さい。

淡河町まちづくりシンポジウム

今日は「淡河町まちづくりシンポジウム -孫・子につなぐふるさと淡河をめざして-」

にパネリストとして淡河の先輩方の前でお話をさせていただきました。

ばっちりカンニングペーパーを用意していったのですが予定外に話が進むのであわてて話を変えたのでちゃんと話ができていたかはわかりませんが。

婦人会のお姉様方、おいしいおはぎをごちそう様です。

今日のシンポジウムはやりっぱなしでなく、議論されたことを淡河町全体の問題として捉え、淡河町の老若男女全体のアクションを募ってどんどん実践して行ってもおもしろいと思います。ただ、それをするときに、これは長い目で考えた時、村の核を崩さないもので本当に村のためにいいのか、ということを考えたい。

田舎をなめるな

しんぽじゅーむ

演題:田舎をなめるな
地味に先生は偉い方みたいですが

ほかにもコージネーター、パネルデスカッションなど

シュールで田舎のこういうところ、素敵。

ツリーハウスを一般開放しています。鍵はついてないのでどうぞお気軽にくつろぎにいらして下さい!

おはようから

淡河のまちづくりシンポジウムの打ち合わせに伺いました。
皆様、非常にアイデア豊富でとてもいい話し合いになりました。共通するのは地元”淡河町”が好きだという気持ち。楽しみにしていてください。
僭越ながら大先輩の方々の前でお話をさせて頂く限りはしっかりと村の20代代表としての立場で謙虚に訴えたいと思っています。ということでカンペづくりに勤しんでおきます。
「まちづくりに参加することはとてもいいことだ、だからみんな参加しましょう」とは訴えません。まちは人がいてまちになります。まちは人と人のコミュニケーションの集積。
まず朝起きて近所の方に出会えば一言「おはよう」。そこから既にまちづくりです。まちはひととひとの関係性。これが緩やかに積み重なって、住んでいて気持ちがいい顔の見える安心なまちになります。
例えば子供はに携帯電話を持たせずとも外で思いっきり遊ばせてあげられたり。子供は地域でみるという都市部にはできにくい関係性ができる。
忙しさにかまけてコミュニケーションの基本中の基本の挨拶、忘れていませんか?明日朝起きて外に出て近所に人にひとこと「おはよう」。明日からぜひ実践してみては?

ツリーハウス内観

ツリーハウス外観

解体まで一ヶ月を切りました。

本当に解体する時間がとれるのか…

淡河町、全国へ。

今日は淡河町ゾーンバスの相良幸信さんがふらっと事務所に立ち寄られていろいろとお話をお伺いしました。

実は2010年1月5日付けで朝日新聞の一面に掲載されたため、全国各地から問い合わせ、来客が殺到し、本当に大変だったそうで。また新聞をご覧になられたい方などおられましたら事務所に保管していますのでぜひご覧下さい。

ドスケベな柴犬をひきつれて近所をふらふら出歩いてしょうもない話を気ままにして去っていくごく普通に田舎の風景になじんでいるおっさんの秘めるエネルギッシュなパワ−にはいつも元気にさせられます。(褒めています。笑)私もごく普通に田舎の風景になじむちょっとイカしたおっさんでありたいです。

新聞記事などご覧になりたい方はお声をおかけ下さい。

淡河町ゾーンバス紹介サイト

また、3月4日の淡河の未来について語るシンポジウムに向けて町民の20代の代表として話をさせていただくために、淡河町の若者に個人的に声をかけてアンケートを実施しています。

普段地元の活動に参画できていない方中心に声をかけていて、30代後半でもまだ若者です。

個人的に声をかけてというのもなかなかの手間なので、以下リンクをクリックして添付ファイルをダウンロードし、記入の後、スキャンしてメールで送っていただくか事務所に持参、郵送していただけましたらとても嬉しいです。皆様の声を代弁して話をさせていただこうと思っているのでよろしくおねがいします!

淡河若者アンケートをダウンロード

cott (コット) 安福友祐
〒651-1604 神戸市北区淡河町勝雄(※2016年2月再移転に伴い番地は削除しました)
E-mail     info☆cott.jp(☆→@)
TEL   078-220-7211

淡河そら祭り OGOGOGO!

11月1日淡河そら祭りの写真が届きました。また落ち着いたら映像も編集してお届けしたいと思います。

淡河そら祭り 原初の風景
茅葺き屋根のティピ
淡河そら祭り 婦人会のたこ焼き
婦人会のお母様方
淡河そら祭り 地元の若者たち
地元の若者たち
淡河そら祭り 竹食器に入ったおでん
竹食器に入ったおでん
淡河そら祭り ウエチマサシとナカノユメ
茅葺きのステージから広がる音
淡河そら祭り 裏神戸コレクション
裏神戸コレクション
淡河そら祭りの雰囲気

去る11月1日。朝6時。天候はハレ。

正午。淡河という舞台装置の演出ではないかと思うぐらいきっちりスタート時間に申し合わせたように雨。(祭り終了後、きっちり止む)

自然と人は共にあることを思い出せと言わんばかりの雨。もともと湖だった水に縁の深い淡河らしいといえば淡河らしい。

元来雨は農村地域では歓迎すべきものであり、そのおかげで秋の豊作が得られる。農耕の神でもある天神様もお喜びになったのだろうか。

水の粒はまるで雨宿りをする人同士をつなぐ装置であるかのように、会場全体を包み込む。

綺麗なグラウンドが水浸しになり、ひとが東奔西走し、屋根を見つけて雨宿りするために集まり、溝を切って場所をつくっている様子はまるで 湖が干上がり地面が現れ川ができ人が住まい始め、といった古来に演じられた壮大な淡河創世記がこの短い時間の中で演じられているかのようでした。

具体的にどんなお祭だったかは、稚拙な言葉で語るとこぼれ落ちてしまいそうなので多くは語りませんが、ひとつだけ。

それはきっとその場所で、その時間を共有した人にのみにわかる。

“説明する”祭りじゃなくて、”感じる”祭りになったのではと思っています。

つい先日この活動を今後に繋げていくために反省会が行われました。

いろいろと運営上の反省点はたくさん挙がりましたが、これもすべてひっくるめてしまうと結局、こうやってたくさんの方に集まっていただいて、世代間の渦、文化の渦が創り出せたのではないか。半年間愛すべきメンバーとああだこうだと言いながら、やってよかったなぁというところに集約します。

誰一人欠けてはならないお祭でした。本当にありがとう。今後ともどうぞよろしく。ということでまた次回もお楽しみに!

淡河そら祭りの風景

淡河そら祭りの朝

All photographs are taken by Kenji

またひとつ歳を重ねました。またいろいろ新しく動きはじめましたが、自分を囲んでくれる全てへの感謝を忘れず等身大に精一杯一歩ずつ着実にいけたらなと思います。

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