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表現をする者ならば

六甲の展望台内観
最近はアートが社会の中で広く認知され、様々なところでイベントなりが開催されたりしている。それは結構なことだと思うが、それと同時にそれらが軽んじられているようにも思う。何でも表現として認められるようになって、すぐにアーティスト気取りができる。how to本がそろう世の中で、それらを組み合わせることで見た感じ自分のオリジナリティの表現をすることは平易だ。
アートだ音楽だハッピーだ愛だ自由だなどと叫んで始めたアートギャラリーを併設したカフェは度がすぎると少しうさんくさい気がしてどうも近寄りがたい。アミューズメント性以外に何を追求したか見えない屋外展示の作品なども多い。本来、アートは啓蒙思想に近いものであってほしいのだが、ここまでくると、どうも消費物になり下がっているような気がしてしまう。

デジタル時代が起こす質の低下

例えば写真の話が分かりやすい。デジタルになって誰でも気兼ねなくシャッターを押せるようになったもんだから、誰だって写真が表現だと言えばそこですでにアーティストだったりするわけだ。作品と言えるほどのつくりこみなんて到底していないのに作品と呼んでいたり。

(ふらふらしながらシャッターを押してそれを作品だと言ってしまうのは、私の生き方こそ作品だから私の見たものを集めたアルバムを見てくれと言っているようなもので、小学生の自由研究や絵日記との違いを見出しづらい。それが強い表現欲と意思に駆り立てられて、極めて意図的にそうしているのならアートとして成立するとも思うが。要は気持ちの問題である。
生きるためという事務的な動機による表現は、「例えば旅をしながら写真を撮りたい」ではなく「こういう絵がこういうことろで必要とされているからここに旅をするという」動機がまるで逆の発想である。真面目に写真表現自体を追求してそれを生業として暮らすことを考える者でさえ、それほど力をかけている。)

社会構造的に見てアートはとても生産性が低い行為で、それで飯を食おうとするならばそれなりの覚悟と努力と金と理解が必要だ。(旅をしながら写真を撮るなんて悠長な話ではそれこそとても生産性が低い。)アートという分野はそれほどに社会の需要に対して飽和している。

命の炎を燃やせ。

岡本太郎風に言えばそういう言い方になるだろうか。ほんまもんのアーティストは予想以上に魂削って作品を生み出している。居心地の良いところで肯定しあっているようでは、先は見えない。否定も取り入れながら旅をしないと。
もちろん表現の自由はあるんだけれど、それで社会の役割の一部を担おうと思うのなら話は違う。アーティストが増えるのは嬉しいが、名乗るのならばそれなりに腹をくくって作品に魂が乗り移るほどに製作に勤しんでもらいたい。

な〜んて、数日前の茅葺き屋根の下の4人の美術家漫談にて思った。
アートは至高のものだというような言い方になったが、まあ他の仕事だって魂削るのは同じこと。つまり今日の話を要約すると、何にしても一生懸命が心を打つということ。
ふまじめ ときどき くそまじめ。
さあさ、朝から気合い入れてこう。
六甲の展望台

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