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時代を考える

1週間の出張を終えて、先程帰宅。

今回の出張は神戸→大阪→奈良→滋賀→京都→大阪→神戸と、関西に小さな輪を描いた。

いろんな方と会って、その分いろいろ感じた。

人と会うほどに自分の甘さを痛感する

人間の奥底に巣食う闇が露呈する

のっぺらぼうたちが笑う

そんなときはまず闇を直視する

自分が前に進んでないとぼくは先を見失い

ぼくは僕が見えなくて僕しか見れなくなる

だからぼくは限られた世界で必死にもがく

たまに誰かが遊びにきてくれる

それぐらいでちょうどいい

人に会いすぎたので、消化作業にいそしみます。でないとどこか宙に浮いたような感覚に襲われる。というわけで今日はちょっとおもしろくない雑談を。

人間誰もが誰もを信頼できる世の中、これは一見コトバヅラは理想に思えるが、どうもそうは思えない。どうあがいても人間の同士には理解しあえないと ころは全くぬぐえないから、誰もが誰もと仲良くなれない。血が出ようとも、血がでまいとも。その延長のようなものが性に合わなければ戦争する。だからもし かしたら今が自然で平和な世界そのものなのかもしれない。国民の意思の統合同士が喧嘩をする。性格、つまり気候風土の違いなどからくる宗教、文化や習慣な どの価値観が違う。だから無責任にSMILE、PEACEなどと叫べない。主体的にたくさん募金等もしないし、酒を飲んでCDや本を買ってこれだけ十分に 余暇活動を満喫しているのだから。慈善活動を慈善活動と思ってやっている時点でもしかしたらその資格はないのかもしれない。

秋葉原で起こった加藤の事件も同じようなことなのかもしれない。こんなことがなぜ起こってしまったのかと言われるが、私には起こるべくして起こった ように思えて仕方がない。むしろよく今まで起こらなかったなと思う。

今回の事件の特質は、容疑者の気持ちがわかるという者が大勢いることだ。私自身も全く理解できないことはない。 にもかかわらず読売新聞のコラムとして長年の実績と信頼を誇る「編集手帳」のこの事件に関する記事の中に「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去 ればいいものを」という見過ごすことの出来ない論調があったらしい。写真家の藤原新也のサイトにそのような記述があった。年々、自殺者は増加しているとい う統計にも見られるように、加藤予備軍がかなり大勢いると推測することは容易であるにもかかわらず、彼らに一人で死ねと言っているのである。 世を洞察する大メディアの頂点はしょせんそのようなところにしかないのだろうか。情報が膨大にあふれるこの世で信頼できる情報は数少ない。この事件は情報 ネットワーク上での血の流れない戦争のごく一部から血が流れた、ただそれだけのような気がする。他の冷戦を戦争化させるひきがねにもなったかどうかは今後 の動向を見守ることとする。

人の命は重い。この事件は人間が透明化しているこの時代に対して実はそれはとても簡単に奪われる軽いものだということを思い出さねばならないという 警鐘なのかもしれない。

自らの目とで見て体で感じて自らの頭で考える。その点で旅することは非常に有用である。

このような事件がもはや普通になりゆくかもしれない時代をどうすべきかに対する回答を、小さなネットワークで循環する文化やコミュニティをつくると いう帰納的な対策により提示しようと思う。まだその計画は水面下で進行中なので、実現が近くなってきたら具体的にここに書こうと思う。

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