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Japanese Autumn Festival

三木大宮大宮八幡宮秋祭り2015
行政区は異なれど、文化圏は同じ東播州、三木市の祭りへ。仕事場からは車で15分程度だ。

農村の祭りは米が無事に収穫できた慰労会のような意味合いが強いため、祭りを催す側の人が多い。カメラを向けてもデジタル一眼レフのカメラマンばかりが写りこんでしまう観光客の多い祭りとは違い、とても賑やかで、熱気が渦巻く。町の人たちの性格もよく出るので、その土地らしさもよく出る。
こういう地の人が楽しむのが主として催されるイベントは情報発信もぶっきらぼうなぐらいがちょうど良いように思う。そういうものは世界に誇れる文化だし、発信したいと思うのが行政的な考え方かもしれないが、もともとが自分たちが楽しむことが主であったものが、いつの間にか観光業にシフトし、何のためにやっているのかという目的が変わわってしまうと、その土地への誇りや愛着等が薄れ、イベントの精神性を失う。それが無くなれば、地域が力を失うと言ってしまえるほど、昔からの祭りには老いも若きもを束ねる求心力がある。

狭く報じる。小さく告げる。

だから我々の役目も都市部の広報とは異なる方法論が必要ではないかと考えている。具体的にはもともとあったものを損なわないよう、広く知らせすぎないことも大事だと思う。言うならば狭く報じる、「狭報」。あるいは小さく告げる、「小告」だろうか。地域にデザインを、と昨今はよく言われているが、まちでイメージされるような、いわゆるグラフィックデザインに用はないことも多いと思う。(用がなければないほど良いと思う。)

祭りの話からはじまったが、地域産業についても同様の考えでいる。ものが売れてがっぽり儲かって、新しく職人が増え、事業所が増えれば良いわけでなく、地産商品を全国規模に展開し、大量生産の方法論を導入すれば、その仕事の本質を忘れてしまいがちだ。職人芸のようなことも必要なくなり、技を持った人が育ちにくくなるかもしれない。むやみに手作業を礼讃する訳ではないが、結局はロボットが職人に敵わなかったという話もよく聞く。何事もバランスである。
儲からずとも全うな対価を得られる生業としての産業が、そして受け継がれて来た物事や考え方がまた次世代に大切に受け継がれ、長く続いて行くためには流行りにしたり媚を売りすぎず、儲けさせすぎないことも必要だと思っている。

デザインの役割は、ものともの、ものと人、人と人をよりよい関係性(Win x Win)で結びつけることである。グラフィックスは基本的にはすでに関係性で結びついたウチの人にはほとんど必要なく、主にソトの人たちのもので、それを使うことで、ソトから訪れた人に未知のルールをわかりやすく可視化して見せることができ、未知の人を集めてものを売ったり、移住者を増やすことにも寄与することができうる。そのため、地域活性化にグラフィックスは不可欠なものだと思われがちだが、ウチとソトがWin x Winであることを考えると必ずしもそうではないように思う。一番の地域活性化は、その土地の名産物が売れることでなく、人口が増えることでなく、その土地に咲いてた笑顔がより美しく咲くことなのだと思う。だから、地域活性化の助成金でわれわれグラフィックデザイナーを駆り出す前に、つながない選択に少しでも思いを巡らせてほしい。(もちろん駆り出した後に一緒に議論しても良い。)

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