- 2014-05-15 (木) 21:56
- Way of Working -cottのお仕事-
メイン機材を梅田のサービスセンターへごっそり持ち込んで点検してもらってきました。
撮影後には必ず掃除をしている、とは言うものの限界があります。
良好なイメージを切り取り続けるためには、長い間たまった疲労を定期的に癒す必要があるわけですね。
業務に支障ない範囲で一部入院させることにしました。
次は人間のメンテもせねば。
これだけの道具を持ち歩いているとカメラマンと勘違いされるのですが、
基本的にデザイン事務所にカメラマンはいません。
(写真の理論をよく知っている人は必要です。)
例外はありますがプロジェクトごとに
設定したイメージを得意とする外部のカメラマンと連携を取って、
イメージを共有し、スケジュールを立てて、撮影に臨むものなのですが、
うちでよくあるのが次のパターン。
いまから写真撮りにきてんか〜
えっ、いまからですか!
すっ、すぐいきます〜
バタバタバタ〜
今度寺の集まりがあってな、写真撮りにきてんか。
あんたの持っとるやつで構へんさかいな。
ええカメラもっとんやさかいいけるやろいな〜
はっはっは〜
は、はい、わかりました!
明日とか、いまからではとてもじゃないけどカメラマンを手配できませんし、
ご指名いただいても私はカメラマンじゃなくて、別のカメラマンに依頼するか
集合写真などであればそれに適した機材レンタルしたいんですけど。
写真はボタンおすだけのもんではないんですよ〜。
とは、とても言えません。
それがシャッターの度に経費がかかるフィルムだとそういうことは起こりにくかったと思うのですが、画面ですぐ確認できて、それが気軽にモバイル機器に転送できたりと、大衆に「画像」というものが身近になったために、仕事の画像とプライベートの画像の境がよくわからなくなっているのでしょう。加えて、PCをまるで魔法のように使って印刷物を自由自在にアウトプットする様子を見られていれば、なおさら画像に関わることは何でもオチャノコサイサイだと思われるに違いない。つまりアナログな人にとって、それがどんなふうなプロセスを経てどんな価値が生み出されるものなのか、つまりどこで仕事(=お金)が発生するのかがよくわからなくなって、そういうやりとりが頻繁に起こるのです。
ただ、そんなコッチ側の話はどうでもよくて、個人の付き合いベースで物事が進む地域に暮らす者として、よっぽどのことでない限りは快く応じています。そうしていると助けてくれますし。
ただ、何かかたちになるときに「少しでもより良いものを」と思うのはものづくりに携わる人間の性が曲者でして、頼まれ事の度にそれに適した道具を導入して、いい仕事をするとまた頼まれて…といったやりとりを繰り返しているうちに、いつの間にか機材はプロカメラマンと言っても遜色ないほどにふくれあがってしまったわけです。。あ、言いたいのは愚痴ではなく、それもおもしろいでしょうということ。たとえば極端な話をすると、その多くが一瞬で捨てられてしまうチラシに比べて、それが50年100年200年と各家庭の上の間に飾られると思うとガンバッテしまいますよね。どんな仕事よりも必要とされている感はあるので、頑張ってしまい、それを楽しんでいるのです。維持費がかかって仕方ないのですが、その分他で人一倍働けばええやと。仕事のために仕事をしているわけではないだろうから、仕事のでかい小さいよりも、意味のある仕事を丁寧にするのです。
旅をするように、求められることに応じて変わっていくかたち。
地元の方々の暮らし方と同じようにそんなかたちの変わり方をゆるやかに許容しながら、
無理のないよう、楽しめる範囲でやってみようと思っています。
上の写真は「普段撮ってばっかりで自分の写真ないんちゃうん」
とお気遣いをいただいたもの。田舎ならではの心遣いにほっこりです。
ヤスフク
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